「鉢形城」(前編) 長尾景春築城 五十子陣襲撃の拠点 埼玉のお城出陣のススメ 山城ガールむつみ
鉢形城は寄居駅の約1キロメートル南、荒川に面した川岸段丘上に築かれました。北側は断崖絶壁で、さらに荒川の支流深沢川に囲まれるように深く削られた天然の要害です。「鉢形城跡」として国指定史跡に登録されているため、見学しやすく整備されています。 鉢形城は小田原北条氏の支城のひとつで、北条氏政の弟氏邦の居城でした。天正18(1590)年の小田原の役の際には、前田利家や上杉景勝に攻撃され、降伏開城しています。このように、小田原北条氏の主要城郭として名高い鉢形城ですが、はじめて歴史に登場するのは、文明8(1476)年に起きた「長尾景春の乱」のときです。長尾景春の乱はどのような背景で起きたのでしょうか。 鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を殺害し、享徳の乱という約30年に渡る戦乱が幕を開けると、公方成氏方は古河へ、関東管領上杉方は五十子(いかっこ)陣(本庄市)を本拠とし、利根川を挟んでにらみ合いました。関東の諸勢力は利根川を挟んでまっぷたつに分かれ、各地で戦いが繰り広げられました。五十子陣には、関東管領上杉氏に味方する関東の名だたる武家が在陣し、また武士だけでなく連歌師などの文化人や僧侶も五十子陣に集まりました。五十子陣は約20年にわたり、古河公方の本拠古河と並ぶ、関東の中心だったのです。その五十子陣を崩壊させた人物こそが長尾景春であり、景春が五十子陣の攻撃の拠点としたのが鉢形城なのです。 景春は関東管領山内上杉氏の家宰を務める長尾景信の嫡男です。そのため、もちろん景春も五十子陣に在陣し、古河公方勢力と戦うなど、主家である山内上杉氏を支えるために働いていました。そのような人物が、なぜ五十子陣を攻撃したのでしょうか。その理由は、景春と叔父忠景の権力争いにあります。事の発端は、文明5(1473)年6月に父景信が死去したことでした。家宰景信の死を受けて、次の家宰に選ばれたのは嫡子景春ではなく、景信の弟であり、景春からすると叔父にあたる忠景でした。 家宰とは、武家の一門内の家政を取り仕切る職責です。いわゆる家臣団のトップであり、一門を束ねる重要な役目です。山内上杉氏は代々長尾氏が、扇谷上杉氏は代々太田氏がその役を担っていました。景春は父の死後、その家宰職が自分ではなく、叔父に継承されることに不満を抱き、主家に対して反旗を翻したのです。