「命に直結しない贅沢は我慢しろ」と言われがちなものこそ被災者に必要である理由【小島慶子】
時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。 能登半島地震と羽田の事故で、つらい年明けとなりました。自分はニュースを見るだけで何もできないと、無力感や罪悪感を覚えている人も多いと思います。私もそうです。年末からオーストラリアの家族と過ごしていたのですが、スマホの緊急地震速報が鳴り続け、報道やSNSから目が離せないお正月に。北陸の知人の安否が気になっても、様子を見るしかありませんでした。 無力感を覚えたら、義援金や寄付という形で被災地を支援することができます。お金は必ず人助けになります。「ちょっとのお金を出したぐらいでいい人気分になっている自分は罪深い」と感じてしまう人もいるでしょう。でも、そんなことはありません。実際に現地で支援活動をしている人や助けを必要としている人にとって、資金は何よりも必要なものです。大金を寄付できなくても、それが他の人の寄付と一緒になると何十億というお金になって、人の命や暮らしを支えることができます。自治体や赤十字、Yahoo!基金への募金、ふるさと納税でも誰かの力になれます。決して無力ではないのです。 日本に戻り、お正月が明けて世の中が動き出しました。私は、年越しシーズンには家族と会えて嬉しい一方、ゆく年くる年を思い過ぎてなぜかメンタルがひどく落ち込んでしまう体質。またいつものようにバタバタと仕事に追われる生活が戻ってきて、やっと深い水底から上がれたような気持ちになりました。昨年の12月にはやらなくちゃいけないことが多過ぎて「もう無理! こんな生活無理!」と毎日怒り泣きだったのに、また日常が戻ってきてホッとしているのです。勝手なものですね。
生きるのに必要なのは、住む場所、着るもの、食べ物だけではない
あなたをホッとさせてくれるものは、なんですか。アロマセラピーや素敵なリゾートもいいけど、案外、社食で同僚とランチを食べているときや近所のスーパーで買い物をしているときがリラックスタイムかもしれません。あまりにも当たり前で、なんとも思っていないような日常の繰り返しの中で、人は安心感を得ているのだと思います。 休暇で思い切り解放感を味わえるのは、平凡で退屈な日常とは違うから。画面の中の誰かが輝いて見えるのは、見飽きた冴えない顔ぶれとは違うから。でも実は自分を守り支えているのは、身の周りにいつもあるもの。値引きシールのついたお惣菜を買って帰宅して、家族とどうでもいい芸能ニュースの話をして、風呂上がりにダサい部屋着でアイスを食べながら、無意識のうちに「ここがホームだ」という安心感を得ているのですよね。 それらが一瞬にして奪われてしまうのが災害です。全てをなくした人は、衣食住の最低限が満たされればいいのではありません。いつものお店で馴染みの店員さんと世間話をしておかずを買って帰る日常が戻るまでが、復興です。なぜなら、人は「お気に入りのもの」や「慣れ親しんだこと」によって生かされているから。ただ住む場所と着るものと食べ物さえあればいいのではないのです。 災害時には、避難所に大量の古着や賞味期限切れの食品、壊れたおもちゃなどが送られてくるそうです。善意からかもしれませんが、被災した人に対して「困っているのだから、きっと粗末なものでもありがたがるだろう」という気持ちがあるのではないでしょうか。それはともすると「ありがたいと思うべき」という思いになります。それが高じて、あるべき被災者像、あるべき困窮者像から逸脱した人を非難することにもなりかねません。