【最終回】始皇帝が夢みた「永遠」
【第2回】「始皇帝陵-兵馬俑が守ろうとした「世界」とは?-」では、始皇帝陵が単なる墓であることを超えて、皇帝を頂点とする秩序そのままに当時の世界を忠実に写そうとしたものである可能性に触れました。面積が56平方キロメートルに達する始皇帝陵のなかで200基近くも見つかっている「陪葬坑(ばいそうこう)」は、生前に始皇帝が暮らした宮殿に付属したであろう厩舎(きゅうしゃ)や娯楽施設までも再現したものです。兵馬俑坑もまた陪葬坑のひとつであり、そこに配置された兵馬俑は実在した宮殿ないし首都を守る近衛軍団を象ったものと考えられます。兵馬俑はただ大量につくろうとしたわけではなく、実在した軍団の兵士ひとりひとりを陶製の像として忠実に写した結果、約8,000体になったのであり、それはモデルになった軍団の実際の人数をそのまま反映したものなのでしょう。 それでは、なぜ始皇帝は近衛軍団を含む宮殿を中心とした世界を、これほどまで忠実に陵墓に写させたのでしょう。最終回に当たる今回は、この謎に挑みます。
始皇帝の豊かな独創性
始皇帝(紀元前259~前210年)の本名は諸説ありますが、ここではもっとも定着している「えい政」を用います。えい政が生まれた頃、中国はおもに7つの大国が互いに争いあう戦国時代でした。そのなかで、もっとも西に位置したのが秦国でした。前247年、えい政は若くして秦の王位につきましたが、成長すると他国を次々に攻め滅ぼし、前221年にはついに中国で初めて天下を統一しました。
えい政は、もはや一国だけの王ではなくなった自分によりふさわしい地位として、「皇帝」という称号を創りだし、初代皇帝という意味の「始皇帝」となりました。始皇帝はそれまで国によってバラバラだった度量衡や漢字の字体などさまざまな統一事業を行います。 始皇帝は暴君としてのイメージがつきまといますが、前例のない政策や制度を次々と打ち出し、皇帝を頂点とする新たな秩序を世の中に実現させた独創性は注目に値します。ちなみに、「朕(ちん)」という皇帝専用の一人称もまた始皇帝が定めたものですが、わが国にも伝わり天皇陛下の一人称として用いられてきました。始皇帝の創始した概念や制度の多くが、後の中国歴代王朝のみならず、日本を含む東アジア全体にまで引き継がれるほど、強いインパクトを与えたのです。