一途な恋心のために放火!火あぶりの刑になってしまった「お七火事」【大江戸かわら版】
江戸時代には、現在の新聞と同様に世の中の出来事を伝える「かわら版」があった。ニュース報道ともいえるものだが、一般民衆はこのかわら版で、様々な出来事・事件を知った。徳川家康が江戸を開いて以来の「かわら版」的な出来事・事件を取り上げた。第7回は恋のために放火した「お七(しち)火事」について。 江戸は火事が驚くばかりに多かった。明暦3年(1657)正月の「明暦(めいれき)の大火」は焼死者10万7千人をだし、明和9年(1772)2月の「行人坂(ぎょうにんざか)火事」は死者3万人を出している。中でも有名なのは天和2年(1682)12月の「お七火事」である。江戸のかわら版もこの火事は、様々なニュースダネを採り入れて書いた。 諸説あるが、お七は本郷の八百屋久兵衛の一人娘で16歳。天和元年の火事で家が焼け、駒込にある知り合いの寺(吉祥寺)も仮住まいをしているうちに、寺小姓・吉三郎と相思相愛の仲になってしまう。吉三郎も16歳。寺小姓というのは、住職の身の回りの世話をする美少年。そのイケメンぶりにお七は惚れて、そして2人は結ばれたという訳である。 しばらくすると、八百屋久兵衛の新居が完成する。仮住まいの吉祥寺から一家は新居に移った。だが、恋しい吉三郎に会いたいお七は恋文を書く。しかし、娘のことを心配した母親が、寺小姓などとの恋を許す訳がない。いずれはしかるべき所に嫁に出すつもりであったから、お七を部屋に軟禁した。 軟禁されたお七は、なおのこと吉三郎への恋心が募る。吉三郎も同じ思いであったから、ある晩野菜売りに変装して八百屋に忍び入った。お七の部屋を探し当てて、そっと入り込む。お七は喜び、2人は久し振りのデートを楽しんだ。夜明け前に帰った吉三郎が、ますます恋しくなったお七は、何とか吉三郎に会う方法はないか、と考えた。そして考えに考えた挙げ句「そうだ。もう一度、火事に遭って家が焼ければ、また吉祥寺に仮住まいできる。そうすれば…」。吉三郎にも毎日会えるに違いない、と思い込んだ。 しかし、いくら待っても火事はそんなには起きない。そこで自ら火事を起こせばよい、と思い込んでしまった。 江戸の火事のほとんどが失火ではなく、放火であった。火事のどさくさに紛れて泥棒をやる、という目的が放火の原因でもあった。幕府は奉行所や火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)に、取り締まりの強化を命令したばかりの頃であった。お七も「放火は重大な悪事」とは知っていたが、恋しい吉三郎に会いたい、という思いが勝った。捕まって火炙りの刑にされることよりも、この時のお七には七三郎とのデートの方が大事だったのである。 天明2年12月28日、本郷から出た火は本所まで燃え移った。燃え上がる火を見つめながらお七は、恋しい吉三郎の面影を火の中に追っていた。そして消火後、お七は吉三郎に会うこともかなわず、逮捕されたのだった。取り調べに当たった奉行が何度も「お七、そなたはまだ15歳であったな」と念押しした。15歳までなら、大人ではないために罪が軽くてすむからで、お七を死刑にはしたくない親切心であったが、お七はきっぱりと「16歳でございます」と言い張り、火あぶりという判決になった。天和3年(1683)3月29日、火あぶりの当日、お七は美しく着飾って市中を引き回されたという。 一方、火事の当時病床にあった吉三郎は、お七の放火を知った。後に宗門に入り「西運」と名乗って、お七や火事で亡くなった人々の菩提を弔い続けたと伝わる。 八百屋お七は、井原西鶴の『好色五人女』などに取り上げられている。西鶴は、かわら版などを元にしてお七火事を描いたという。
江宮 隆之