【ぴあ連載/全13回】伊勢正三/メロディーは海風に乗って(第5回)「神田川」のヒット
「なごり雪」「22才の別れ」など、今なお多くの人に受け継がれている名曲の生みの親として知られる伊勢正三。また近年、シティポップの盛り上がりとともに70年代中盤以降に彼の残したモダンで緻密なポップスが若いミュージシャンやリスナーによって“発掘”され、ジャパニーズAORの開拓者としてその存在が大いに注目されている。第二期かぐや姫の加入から大久保一久との風、そしてソロと、時代ごとに巧みに音楽スタイルを変えながら、その芯は常にブレずにあり続ける彼の半生を数々の作品とともに追いかけていく。 【すべての画像】神田川ジャケット画像ほか 第5回 「神田川」のヒット 「神田川」は最初シングルで出す予定ではなかった。 最初に世に出たのは、第二期かぐや姫の2ndアルバム『かぐや姫さあど』(1973年7月)のB面に収録された曲としてだった。コミックバンド的なスタンスから徐々にフォークグループとして認知されていくようになるなかで、そろそろこれだというヒット曲が必要だった。そこで僕たちは、ザ・タイガースの曲の大半を手掛け、ヒットメーカーとして有名だった作曲家のすぎやまこういち先生のお宅を訪ねた。曲を書いてくださいという陳情だ。 先生も僕たちのことを知っていて、「ああ、君たちね」という感じだった。それはつまり、コミックバンドとしてのかぐや姫という理解に他ならなかった。それでできたのが「もういいじゃないか」。どこかのんびりとした雰囲気のある、これはこれでいい曲だった。だから当初はこの曲をアルバムリリース後のシングルとして考えていた。 ところが──。 こうせつさんが深夜のラジオ番組で「神田川」をかけたところ、リスナーから信じられないくらいの大反響があった。それは日に日に大きくなり、急遽「神田川」をA面に、「もういいじゃないか」をB面にしたシングルをその年の9月にリリースすることになった。かぐや姫にとって、初めてにしてシングルとしては唯一のオリコンチャート1位をもたらす曲となった。 「神田川」は作詞の喜多條忠さんによるところが大きい。僕も何曲か喜多條さんとのコンビで曲を書いているが、彼の歌詞には独特の言葉のリズムがあって、曲がつけやすい。こうせつさんもすぐに出来たと言っていた。その曲がグループの人気を決定づけるものになるのだから音楽というのは不思議だ。そういう意味でも、「神田川」という曲は、僕の意識としては作ろうと思って作ったものというよりも、突然我々に与えられたものだというふうに感じている。