死体が材木のように放射状に積まれていた…原爆の悲惨さ語り継ぐ京都、滋賀の被爆2世を突き動かすもの
広島、長崎に原爆が投下されて79年。被爆者を親に持つ被爆2世たちは、被爆の被害を間近で見聞きしながら、自身も放射線の見えない恐怖にさいなまれてきた。原爆の悲惨さや被爆者の子ならではの苦悩を語り継ごうと動き出す京都、滋賀の2世をリポートする。 ◇ 「広島を語り継いでいく使命感を、自分が年をとって感じるようになりました」。京都府精華町に住む若見洋子さん(72)の自宅には、原爆の悲惨さを伝える出張授業がいつでもできるよう、教材一式が準備されている。小中高それぞれの年齢に合わせた約50分間の教材は、広島平和記念資料館(広島市)の職員たちと協力して作り上げた。 終戦後の広島に生まれた若見さんに、直接の被爆体験はない。ただ、「原爆に関心なく生きていくことのほうが難しかった」と幼少期や青年期を振り返る。戦災から立ち上がる街の風景にも、家族や友だち、先生の話の中にも、少なからず原爆が残した「陰」があった。 母の河野キヨ美さん(93)は、原爆投下直後の広島市内に入って被爆した。「もっとひどい被害を受けた人がいるから」と自らの体験を公にすることはなかった母が、70代になって人前で自らの記憶を話し始めた。 8月7日の広島の駅前には、肩からちぎれた皮膚をぶら下げた被爆者が長い行列をつくっていた、病院の花壇には死体が材木のように放射状に積まれていた…。見たままを語る母の経験談は、被爆の悲惨さをストレートに伝えた。と同時に、被爆から約60年がたって語り始めた母の姿に、突き動かされるものがあった。 広島に生きる人たちには、少なからず原爆の記憶があった。だが、「あの日」が遠くなり、語れる人は少なくなっている。「母は被爆後の広島を見た者の務めとして、語り続けなくてはいけないと思っているのでは」(若見さん)。自分に原爆投下時の記憶はない。だが、被爆者が身近にいる2世としてできることがあるのではないか。広島平和記念資料館や平和記念公園で、展示物などを解説しながら案内するピースボランティアを2006年から6年間務めた。 11年からは、学校などへの平和出張授業も始め、広島や大阪、兵庫などにも赴いた。母のように生々しい被爆直後の体験を伝えることはできない。だからこそ、事実に基づく伝承にこだわる。 高校生を対象に話をした時には、原爆ドーム近くの川から掘り出された「原爆瓦」を持ち込んだ。3千度から4千度もの高温に達したとされる原爆の熱線で、表面は発泡したように溶けている。「みなさんと同じ高校生が戦後、川底に沈んだ瓦を一生懸命集めて、今ここにある」。事実や遺品の持ち主について正確に伝え、実際にあった出来事であることを実感してもらえるようにしている。 戦後79年となり、原爆投下時の体験を直接聞ける機会は減っている。記憶をつなげるために、二度と悲惨な被害を生まないために2世ができることは何か。「おじいちゃんやおばあちゃんの命日と同じように、身近に8月6日、9日を知ってほしい」。出張授業の教材は今も1年に1度は広島市に赴いて改訂作業を重ねている。