戦闘機を全機失い本土帰還へ…硫黄島の元陸軍伍長が見た、生涯忘れられない「日本兵たちの表情」
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が11刷ベストセラーとなっている。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
紙一重の本土帰還
戦闘機を全機失った西さんらの部隊は、1945年1月8日、本土に戻ることになった。 「帰ることが決まったその日は、帰還のための爆撃機に搭乗するため、司令部壕の前からトラックで千鳥飛行場に向かいました。待機中の機体にトラックが横付けし、荷物を半分ぐらい詰め込んだ時に空襲警報が鳴りました。『早くしろ!これを逃したらおまえら帰れんぞ』っていう操縦士の怒鳴り声の中で、とにかく急いで機体に乗り込みました」 硫黄島最後となったこの日、西さんは生涯忘れられない「顔」を見た。それは島の兵士たちが別れの際に見せた表情だ。 「本部壕前でトラックに乗り込んだときのことです。トラックの周りに大勢の兵たちが見送りに集まってくれました。みんな島で顔なじみになった人たちです。短い期間ではありましたが、これほど親密になる出会いは、それまで経験したことがありませんでした。別れの言葉を交わしたとき、彼らは皆、笑顔だったんです。彼らの中には『自分も本土に帰りたい』と言う人は誰一人いませんでした。神々しいまでに美しい笑顔でした。そして、私たちが乗るトラックが見えなくなるまで、彼らはずっと手を振り続けていました」
本土は別世界
本土に帰った西さんの胸の内は複雑だったという。 「本土に着いたときの思いはなんて言えばいいかなあ。ほっとしたっていうのはないですよ。なんかもうむなしい。ついさっき別れた硫黄島の兵たちの面影がずっと頭に浮かんでいましたね。私たちは硫黄島の空襲で軍服が焼けてしまったから作業着で帰還しました。それで千葉の本隊に戻るために列車に乗ったわけです。おかしな格好だなと乗客から思われたでしょうね。硫黄島をたったのは午前11時で、基地に着いたのは午後7時ごろでした。腹が減っているだろうということで、炊事場からご飯が送られてきましたね。それをむさぼり食べました」 帰還したのは、まだ本土攻撃の切迫感が広がっていない時期だった。 「帰還後、3日間ぐらい休暇をもらいました。それで都内の姉夫婦のところに行ったら、生きて帰ってきたからびっくりしてね。酒を飲ませてくれましたよ。東京は、硫黄島のことを全然分からんで、よくまあのんびりしているなあと思いましたね。今まさに危ない目に遭うということを予想もしていないようなね。もうあまりにも環境が違いました。飛行機でわずか4時間の(距離の)差でね」 帰還の2ヵ月半後の3月下旬、西さんは玉砕の知らせを聞いた。 「硫黄島の米軍上陸と守備隊玉砕は、基地のラジオで知りました。玉砕を知った時、一緒に戦った一人ひとりの顔が浮かびました。普通、私たちが帰還するとき『あんたたち内地に帰れていいなあ』とか『俺も帰りたい』って思うでしょ。でも全然、そういうことを口にする人はいなかったですよ。自分たちは硫黄島に骨を埋めるという覚悟ができていたと思うんですよ。非常に悲しかったですねえ。それと最後に会った時の栗林さんの面影ですね。新聞でも玉砕が報じられましたが、私は漠然と読んだ感じです。悲しい思いでしたから。細かい記事は見なかったです」 そして8月15日、終戦の日を迎えた。 戦後は中央大学に復学した。卒業後、高校の英語教諭の道を歩んだ。 「部隊の仲間とは終戦後、それっきりです。一人だけ同郷の学徒兵とは会って『いつかまた硫黄島に行こう』なんて話していましたが、彼は長く生きられませんでした。硫黄島で爆撃を受けて埋もれ、肺の中に土がたまり、それが病となって終戦の10年後ぐらいに他界しました」 戦後、硫黄島は米軍や自衛隊の拠点となり、一般民間人の自由な渡島は認められない。僅かに年数回、認められている国など主催の慰霊行事でも、参列者は自由な単独行動は許可されない。用意されたバスに分乗し、事前に定められた戦跡を巡るだけだ。戦後、慰霊行事に参加した西さんも、現地で残念な思いをすることになった。 「私が行きたかったのは、友達(蜂谷さん)を埋葬した元山飛行場の先の方でした。そこと栗林壕(兵団司令部壕)と(自分が駐屯した)元山飛行場。その3ヵ所だけは絶対に見たかったんだけど、車の運転手が全然、止まってくれないんですよ。それで私も墓に行けなかったし、栗林壕の前を通りながら、行けなかった。残念無念でした」
酒井 聡平(北海道新聞記者)