死をも恐れぬ武士の精神は憧れか?尊敬か?お土産にもなった「ハラキリ写真」
「刑罰としての切腹」の衝撃
江戸時代、武士の切腹には二種類あった。一つは自死の方法としての切腹、もう一つは刑罰としてのそれである。後者は「他者によって命を奪われる」という不名誉を回避させるもので、斬首より軽い刑罰だった。しかし実際には、罪人の腹に短刀が刺さるのを見てすぐ、後ろに控えた介錯人が首を刎ねて絶命させることがほとんどだったようである。 なお、有名な赤穂義士たちの切腹は、その原因となった浅野長矩のものも含め、全て刑罰として行われた。掲載した彩色写真は、明治中期に撮影された赤穂義士の墓所である。 この刑罰としての切腹は、1873(明治6)年に廃止される。よって、外国人が数多く来日する頃、犯罪の代償として切腹させられる者はいなくなっていた。しかし、刑罰としての切腹を実見した外国人もわずかに存在する。堺事件の後、捕縛された20名の切腹に立ち会ったフランス軍艦艦長デュプティ=トゥアールは、その一人である。 堺事件とは、1868(慶応4)年2月15日、堺に上陸したフランス軍艦の水兵と、警備を任されていた土佐藩兵が衝突したものである。この際、11名のフランス人が命を落としている。土佐藩兵は「フランス人たちが現地住民に暴行したこと」を実力行使の理由として訴えたが、取り調べも満足になく、フランス側の要求を全て飲む形で新政府は土佐藩兵20名に切腹を言い渡した。 2月23日に堺の妙国寺で執り行われた切腹の様子について、立ち会ったデュプティ=トゥアールは、英国人外交官にこのように語っている。 「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地を汚した忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで(中略)艦長が残り九名を助命するように頼んだ」 ― ミットフォード著、長岡祥三訳『英国外交官の見た幕末維新』(講談社学術文庫) この切腹において驚くべきは、すぐに介錯人が首を斬っていないところである。最初に切腹したのは隊長の箕浦猪之吉なので、この歌を歌ったというのは彼のことだろう。なお、箕浦は当時25歳だった。彼はまた、自らの臓器を立ち会っていたフランス人たち目がけて投げつけた、などという話も伝えられている。 一般的に江戸時代における長い平和は、「名誉を何より重んじる伝統的武士道」を時代遅れにしたと考えられている。しかし、土佐藩兵のこの例を見る限りでは、そういった精神は一切退潮していないようである。もちろん、一事をもって全体を判断するのは極めて危険だろう。だが、ごく一部であったとしても、幕末・維新期にこのような価値観が残存していたことは記憶しておく必要がある。 刑罰としての切腹が消えた後も、自死としての切腹は根強く残った。このことも、彩色写真のテーマとして「切腹という風習」が頻繁に選ばれた理由である。