アメリカで言う「真に独立した個人」ってどういう人?
理論の授業はSI、設計の演習は工業単位系、参考書を求めて図書館に行くとヤード・ポンド法が飛び出す。SIと工業単位系は同じメートル法由来でかなり共通なところもあるが、それでも単位系の行ったり来たりは面倒だったし、たまに使うことになるpsiや、トルクの単位のポンド・インチとかは「頼むから勘弁してくれ」という感じだった。 これが実務となると、「2で割る習慣」が乗っかってくる。鋼板などの薄板の厚みは1/2インチだったり1/4インチだったり1/8インチだったりで、間の厚みが欲しい場合は3/8インチだったり5/16インチになる。パイプの太さも1/2インチ、1/4インチ。インチ規格のネジの太さも3/8インチだったり5/16インチだったり。 特に航空宇宙分野はアメリカの産業が圧倒的な実力を持っており、それ向けの材質の薄板やパイプ、継ぎ手などを生産しているので使わないわけにいかない。 「2で割る習慣」はそもそもインチにはその下の単位がなく、しかも10進法でもなかったのでこのような「半分にして半分にして」という形で1インチ以下の寸法を表す方法が発達したのだという。慣れればわかりやすいのだろう、慣れれば……。 メートル法か由来のSIが国際的に制定され、利用されつつある今も、なぜアメリカは、ヤード・ポンド法にこだわるのか。 メートル法の制定は1799年。この時点ではフランス一国の単位系だったが1875年のメートル条約により国際的な単位系となった。1948年からはより整理され、合理的な単位系であるSIの策定が始まった。SIはより合理的かつ包括的な単位系を目指して、今も改良が続いている。 アメリカもまたメートル条約に加盟し、政府としてはSIを推進する立場にある。しかし、アメリカ社会におけるSIの定着はまだまだ先が長いという状況だ。私には、就職した38年前に、アメリカの機械工学雑誌に、工場で「Use Metrics!(メートル法を使おう!)」という標語の看板が、蜘蛛(くも)の巣が張ってうち捨てられているという1コママンガが掲載されていた記憶がある。 かけ声はあるが誰も顧みない――つまり、ヤード・ポンド法への執着は政策というよりもアメリカという国のエートス(情念・習慣)に起因する。 ●アメリカという巨大で特殊な国 世界唯一の超大国アメリカ。だが「アメリカの標準が世界の標準ではない」ことはほかにもある。例えば特許における先願主義と先発明主義だ。世界的には「先に出願した者が特許を得る」先願主義だが、アメリカは長らく「先に発明したと証明されるなら先に発明した者が特許を得る」先発明主義を採用してきた。先願主義に移行したのは実に2013年のことだ。 国際的に普及した社会医療保険制度に逆行する民間保険の重視(社会医療保険制度のオバマケアが、ようやく動き出したのは2014年。それも今回のトランプ再選でどうなるか先行きは不透明)や、あの奇妙な「Winner takes all」の米大統領選挙における選挙人制度なども、そこに含めることができるだろう。 日本ではグローバリゼーションというと、なんとなく「アメリカに合わせる」と思い込んでいる人が決して少なくない。雪村いづみが「アメリカでは」と歌った通り、敗戦からこっち、そろそろ80年になろうかとする歴史的経緯によるものだろう。 ところが、実際にはアメリカは「巨大な特殊」であることのほうが多いのである。 では「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」という国の根底にあるエートスとは何か。私思うに、それは「野性の伝道師と独裁者のアブナイ関係」 で書いた、「人間存在とは、身一つで大自然に立ち向かうものだ」という観念であろう。 自分の体一つで大自然に分け入り、斧(おの)を振るって木を倒して開拓し、畑をつくり、人間の住む場所をつくる。その過程において、ただ1人の個人たる自分が大自然と対話し、その中から神の指し示す真実をつかみ取る。自らの意思と、行動で――。