「蛍光灯もチョップも一緒」デスマッチ王者が語るプロレスの魅力
力道山、BI砲、闘魂三銃士&四天王――。プロレスは、戦後日本の大衆文化として、何度もブームを迎えています。現在はインディーズ系の団体が多数旗揚げし、地域密着やエンターテインメントなどさまざまな志向でブームを支えています。 そんな中、スタンダードなプロレスに加えて、蛍光灯・有刺鉄線・剣山など日常にあるアイテムを使った「デスマッチ」も行っているのが「大日本プロレス」です。BJW認定デスマッチヘビー級王者にこの夏返り咲いた伊東竜二選手に、デスマッチの世界に入ったきっかけや魅力について聞きました。
地元での試合をきっかけに“開眼”
日本のプロレスは、1950年代から60年代にかけ、力道山が外国人選手を空手チョップでなぎ倒し、空前の人気を誇りました。その後、80年代から90年代にかけ、ジャイアント馬場・アントニオ猪木という二大スターを輩出、その二人がそれぞれ設立した「全日本プロレス」「新日本プロレス」を中心にプロレス界は動いてきました。 平成に入りプロレス団体が細分化、インディーズと呼ばれる小規模な団体が多数設立され、地域密着型(みちのくプロレス、K-DOJOほか)やエンターテインメント型(DRAGONGATE、DDTほか)などの団体が人気を博しています。
大日本プロレスは、今や数少ない力道山門下生のグレート小鹿選手が会長を務める団体で、1994年に横浜市で設立されました。そのエースの称号ともいえるBJW認定デスマッチヘビー級王者に、今年7月に5度目の返り咲きを果たしたのが伊東竜二選手。伊東選手は1998年に22歳でデビュー、2003年からデスマッチに参入しました。 「大日本プロレスでは、新人時代はみっちり基礎をやるので、ストロング(スタンダードなプロレス)一本です。その中で『デスマッチをやりたい』と手を挙げたレスラーがデスマッチの試合に組み込まれていきます。自分の場合は……ちょっと特別だったんですが、当時マッチメイクをしていた登坂(栄児=大日本プロレス社長)さんが、岩手の試合の時に地元の僕をメインに組んでくれたんです。同時に別ルートで小鹿さんが『メインはデスマッチで』と地元の方にお願いされていて、それが組み合わさってデスマッチデビューとなりました。実際なかなかデスマッチファイターになりたい若手は少ないので、その時に登坂さんの目が光り『今回だけじゃなくて次もできる?』と聞いてきたので『はい』と答えたのが、デスマッチ路線に進むきっかけになりました」(伊東選手)