孤立死は「自分の選択」か
孤独や孤立の問題をめぐっては、個人の自由だという考え方があります。近著に「友だちがしんどいがなくなる本」がある、早稲田大学文学学術院教授の石田光規さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】 【写真】ビル街でひとり ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ほっておいていいのか ――孤立死もふくめて自分の選択だという考え方をどうみますか。 ◆つながりはあるべきだと考えるか、なくても個人の自由だと考えるかは、しっかり議論する必要があります。孤立を「その人の選択だから」といってしまうと、社会から排除されている問題を見落とす、あるいは排除を「自分の選択」にすり替えることになります。 ――ほっておいていいのか、ということですね。 ◆孤独・孤立の問題では、「私は大丈夫だからほっといてくれ」ということが多いのです。 私たちの社会には、どのような結果になっても、その人の選択だからそれでいい、という考え方が強くあります。しかし、その選択が、本当にきちんとした選択なのかを判断することは、実はとても難しいことです。 言葉の表面に出てきたものを選択と捉えるのは簡単です。 しかし、会社が倒産し、友人に裏切られて、家族も離散状態になった人が「ほっといてくれ」と言うことは、自分の選択なのでしょうか。「自分は大丈夫」と言う人ほど、厳しい状況が隠れていることは多いのです。 また、そうした人ほど、揺らぎがあります。一度大丈夫と言っても、なにかあれば、つらいと思うのです。そもそも揺らぐのが人間だということも大切です。 ――「自分で選択できる社会」がよい社会だという考え方は強いものがあります。 ◆しかし、選択するならば責任も負ってもらうという考え方が背景にあります。選択と責任が非常に近い距離にあります。責任の所在を決めるために選択を迫っているところがあります。 ◇「人付き合いからの撤退」 ――結果として、「人付き合いからの撤退」が起きているとおっしゃっています。 ◆人付き合いをリスクととらえるようになっています。友だちづきあいでもきちんとしなければならなくて、きちんとつきあえないならば、撤退してしまいます。 友だちなんだからいい状況でなければならないと考え、自分にマイナスのことがあった時に、相談するのではなく、迷惑をかけるぐらいならば、つながりから撤退する選択をします。 ――「迷惑をかけたくない」が先に立つのですね。 ◆若者も高齢者も孤立する人の多くにある考え方です。親の介護が必要になってこれまでどおりのつきあいができなくなると、そのことを言うのではなく、関係から撤退します。母親同士のつきあいでも、子どもが学校でうまくいかなくなると、そのことを言えないから、関係から撤退します。 迷惑をかけ合うことができる社会ではなく、迷惑をかけるようになったら、そっと撤退します。孤立する人には、「迷惑」に非常に敏感に反応する人がいます。孤立死に至る人にもそうした方が多いのです。 ――社会の側がどうするかは難しいですね。 ◆当事者が声を上げず、周囲も「本人の選択を尊重する」と言って声をかけなくなります。これを乗り越えるのは難しいことです。 ◇自由ならいいのか ――もう少し個人の領域に踏み込むべきでしょうか。 ◆孤独・孤立が問題だと考えるならば、もう少し踏み込むべきです。一方で現在の日本では踏み込んでいくのはとても難しいことだとも思います。 ――ではどうなるのでしょう。 ◆私たちは、ただ生きていくのならば、人付き合いは必要ない形を作ってきました。人との付き合いの必然性を削っていける社会です。 でも、たとえば病気になった時にどうするか。その時につながりが必要だと思っても手遅れです。頼れる家族はもういません。 私たちはなにかを強制することをとにかく悪いものであるとずっと考え続けてきました。そのことはいま一度見直す必要あると思います。個人の自由だけではやっていけないということも、考える必要があります。(政治プレミア)