Nステで「久米宏」と共演した元人気アナが、模型の「タミヤ」会長から「日本一のタミヤファン」と称される理由
第1回【元テレ朝「人気アナ」、定年後は「タミヤ」の“模型史研究顧問”に 小6から「絶版キット」収集の筋金入り“プラモデル”愛】からの続き 【写真を見る】タミヤ歴史館で熱く語る姿と、松井さん秘蔵の懐かしのタミヤキット写真など テレビ朝日でアナウンサー・報道記者を37年務め、第2の人生として株式会社タミヤの模型史研究顧問に就任した松井康真さん(61)。第1回ではタミヤとの出会いと絶版キット収集の思い出などを伺ったが、松井さんがタミヤのプラモデルと出会った小学生の頃に抱いていた将来の夢、アナウンサーになることはどうやって叶えたのか。(全3回の第2回)
「化学を舐めるな!」
アナウンサーになるには早稲田大学か立教大学に行って、アナウンス研究会に入るのが近道(と、当時の何かの本に書いてあった)――そこで第一志望を早稲田にした松井さんだが、家庭の事情を考えると、東京の私立理系大学へ通うのは難しいかもしれないという、現実に直面する。 「考えた末に『東京工業大を受けるので、滑り止めとして早稲田と慶應を受ける』と、父親に相談しました。父は東京農工大を出ており、東工大の難易度を知っています。それなら頑張れ、と了承してくれました。結果、東工大も早稲田も慶應も、全て合格しましたが、私としてはアナウンサーになる夢があるので、早稲田に行きたい。でも、尊敬していた高校の担任からは“勉学を極めたいなら東工大へ行け”と。実際、学費も当時は早稲田の理系が年間100万円に対して、東工大は18万円。親の負担も考えて、東工大へ進学しました」 大学でも音楽活動は続け、管弦楽団に入り、団長も務めた。やがて大学3年の学年末試験を迎える。松井さんは化学系(工学部化学工業科)。そのまま4年に進級すると「研究室所属」となる。 「その頃、化学系の4年生は“セブンイレブン”と呼ばれていました。朝7時から夜11時まで、毎日、実験があるのです。土日も休みはありません。そこで、ふと考えたのです。自分はどんな職業に就きたいのかと。そんな生活をしていたら、アナウンサー採用試験さえ受けられない。何より、アナウンスメントの基礎もわからないし、富山県出身の私にはアクセントの違いや方言もある。どうすればいいのか」 アナウンサー試験は、簡単に合格できるものではないことは承知していた。しかし、小学生時代からの夢を諦めたくない――2日間、熟考したのち、受けるからには“勝つ勝負”をするため、学年末試験でわざと1科目を落として留年して、アルバイトをしてアナウンススクールに通うことにした。 「学年主任の先生が驚きましてね。『松井、どうした。授業には全部出て、レポートも出して、実験もしている。体調が悪かったのか。何なら特別レポートを出したら通してやるぞ』と言われ、本当に申し訳ない思いで、留年する理由を話したんです。高校時代と同じで、東工大でもアナウンサーを目指す学生なんていませんから、学年主任も驚きましてね、大声で言われましたよ。『化学を舐めるな!』と」 こうした経緯もあり、アナウンサー試験に何としても合格しようと、スクールでも真剣に取り組んだ。そして、テレビ朝日アナウンサー職の内定を得ることになる。東工大出身ではもちろん初めてのことだった。