トンネルだらけの山陽新幹線「のぞみ」“ナゾの通過駅”「三原」には何がある?
高架下の改札を抜けて駅の外に向かう
高架下の改札を抜けて、そのまま流れに乗って駅の外に出れば、そこは石垣とは反対の南側。バスのりばとタクシーのりばが分けられた大きな駅前広場が出迎えてくれる。その中央には噴水広場もあったりして、いかにも新幹線のターミナルらしい駅前だ。 駅前通りの向かい側には図書館なども入った公共施設が建ち、その脇にはホテルなども見える。マリンロード、またグリーンロードといった名前がつけられている細い道沿いには飲食店がひしめく。ちょっとした歓楽街のようなエリアなのだろうか。少なくとも、駅の南側一帯が三原の中心市街地であることは間違いなさそうだ。
高架を潜って北側に出ると小さなロータリーが。その真ん中に何やら像が…
が、最初の目的地はこちらではない。駅の北側の石垣である。高架を潜って北側に出ると、そこにも小さなロータリーがあった。その真ん中の小島には、何やら像が鎮座している。 近づいて見ると、小早川隆景公。毛利元就の三男にして、兄の吉川元春とともに毛利両川として戦国末期の大大名・毛利氏を支えた傑物だ。そんな隆景公の像が鎮座し、傍らには「隆景広場」と呼ばれる広場も整備されている。 そして、その向こうには水を湛えるお堀と三原城本丸天主台の石垣だ。新幹線の高架は、三原城天主台の南側を削り取りながら、東から西へと走っているのである。高架下には石垣の一部が残っていて、まるで高架の基礎が石垣のよう(実際はさすがに違うと思います)。 かつての広大な城の一部に線路が通る、などという事例は意外とあちこちで見られるが、ここまでまったく天主台のど真ん中を貫く新幹線の駅など、三原をおいて他にないといっていい。
どうして「三原」はこんなことになった?
この三原駅が開業したのは、1894年のことだ。隣の糸崎駅から広島駅まで線路が延びたときに開業している。当時はもちろん新幹線などなく、在来線だけの駅である。しかし、このときから三原城の真ん中を貫くように線路が敷かれている。 というのも、その頃の三原という町は、いまよりももっと平坦部が少なかったのだ。北には山が迫り、お城の北側に西国街道が通り、そのすぐ南はもう瀬戸内の海。三原城は、まるで瀬戸内海に浮かんでいるように見えたことから、「浮城」などと呼ばれていたという。 そうした町に鉄道が通ったわけで、それはもうお城だろうがなんだろうが、その真ん中を貫かざるを得なかったのだろう。 いま、三原の中心市街地が広がる駅の南側。その中を歩くと、ところどころに三原城の痕跡を見ることができる。例えば、駅前に建つペアシティ三原という大型複合施設。その裏手には石垣が残っていて、「三原城本丸中門跡」の碑がみえる。 また、駅前広場の脇から南東に向けて少し入ると小さな池があり、「三原城船入櫓跡」の説明書き。つまりは、船で三原城に入るための船溜まりがこのあたりにあったということだ。 つまり、お城の跡を貫いているのは鉄道だけではなく、もはやいまの三原の中心市街地そのものがかつて城があった場所。瀬戸内海に浮かぶ城の周りを埋め立てて、そこに市街地が形成されたのが三原という町なのである。