第9回 鶴岡(山本)一人とグレートリング vs 戦力もまとまりも欠いた巨人・阪神|「対決」で振り返るプロ野球史
ヤミ、八百長、栄養失調……。そんな時代だった
合宿近くのイモ畑に立つ鶴岡。とにかく「まず食うものを」だった
東西対抗で復活ののろしをあげたプロ野球は、1946年4月27日に戦後初のペナントレース開幕を迎えた。参加チームは、戦前からの巨人、阪神、中部日本(元名古屋)、阪急、近畿グレートリング(元南海)、パシフィック(元朝日)に新加入のセネタースとゴールドスターの8球団。 西宮球場が米軍に接収されず、用具もそろっていた阪急や、トレーニングを十分に積んできたセネタースが優勝候補と言われた。盟主巨人は、スタルヒンと川上哲治の投打の両輪がチームに復帰せず(川上は6月28日復帰)、若手のホープで43年の打点王、青田昇は、サッサと阪急入りしてしまったから、スタメンをそろえるだけで精いっぱいで、優勝へのメドなど立ちようがなかった。 そんな中で、鶴岡(当時山本姓)一人監督兼内野手に率いられた近畿グレートリング(以下グレートリング)は独自の戦いを始めていた・・・
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週刊ベースボール