知られざる西南戦争激戦地 劣勢の薩軍は火縄銃まで持ち出した…長さ55メートル、山中に県内最大規模の防御陣を確認 窮状ありあり不揃いの手作り弾丸大量出土 宮崎県日之影町
西南戦争(1877年2~9月)の終盤、薩軍と政府軍の攻防が繰り広げられた宮崎県北部の日之影町山中を調査した宮崎県埋蔵文化財センターは、薩軍が防御のために築いた「大台場」が県内最大規模の堅塁だったと明らかにした。現地で見つかった大量の弾丸にはふぞろいの手作り品もあり、武器が不足した薩軍の窮状がうかがえるという。 【写真】「大台場」跡を測量する宮崎県埋蔵文化財センター関係者=宮崎県日之影町岩井川(同センター提供)
8月25日に宮崎市で開いた講座「激戦、大台場~西南戦争日之影大楠の戦い」で明らかにした。 大台場では6月25日から7月2日にかけて戦闘が行われた。西南戦争は、ライフル銃による撃ち合いが主流となった戦いだったが、このころには両軍ともに銃の供給不足に陥っていた。特に薩軍は深刻で、火縄銃まで駆り出すほどだった。劣勢の薩軍は、土を盛ったり掘り下げたりして、政府軍の火力を防ぐ「台場」を設けて対抗した。 講師の同センター調査課、上野哲矢さん(42)は、標高約370メートルの尾根筋に設けられた大台場は長さ55メートル、最大幅20メートルと県内最大規模で、複数方向からの攻撃に対応できたと調査成果を報告。「兵士50人以上を収容でき、突破が難しい堅塁だった」と解説した。 大台場から西に200メートル、標高約400メートルの地点には、政府軍が設けたとみられる長さ8メートル、幅4メートルの台場も確認。二つの台場周辺からは、政府軍が主に使用したスナイドルライフルや薩軍使用のエンフィールドライフル、火縄銃の弾丸、遠方から打ち込まれたとみられる四斤山砲の砲弾片など、218点の遺物が出土した。
薩軍使用のエンフィールドライフルの弾は、形や大きさ、材質が通常と異なる手作り品とみられ、補給が厳しかった薩軍の窮状を裏付けた。大台場内から見つかった4枚の「天保通宝」は、文字や穴の大きさがすべて異なり、幕末、旧薩摩藩などが手掛けた偽金とみられる。 上野さんは「大台場を巡る戦いが、知られざる激戦だったことを明らかにできた。地域の人たちが林道を迂回(うかい)して建設するなど、遺構を大事に守ってきたことも遺物の大量発見につながった」と締めくくった。 西南戦争時、宮崎県は廃止され、鹿児島県に編入されていた。同センターは、人命や財産に大きな被害を出し、住民に宮崎県再置の機運を高めるきっかけとなった同戦争の実態把握を目的に、2020年度から25年度まで関連遺跡調査を実施中。現在までに台場約540基、墓・慰霊碑等約610基、その他関連遺跡約30カ所を調査した。 ■西南戦争と宮崎県 西南戦争は1877(明治10)年6月1日、熊本県・人吉の薩軍本営の陥落により、当時は鹿児島県に属していた宮崎県内が戦場となった。政府軍の攻勢が加速すると、薩軍は北へ敗走。8月15日、和田越(延岡市)の戦いに敗れると、政府軍に包囲された薩軍の総大将・西郷隆盛は軍解散を布告した。西郷ら総勢600人は可愛岳を登って、包囲網を突破、九州山地の山岳地帯を踏破して9月1日、鹿児島に戻った。
南日本新聞 | 鹿児島
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