死は「悪いこと」ではない? 「良い人生」とは何かを考えるために必要な哲学の思考実験
「死」は恐ろしいものなのだろうか。もしそうであるならば、なぜだろう。 苦痛を伴うからだろうか。では、苦痛のない「死」は恐れる対象ではないのか。 このような哲学的思考を丁寧に辿ってみると、今まで当たり前だと思っていたことが覆るかもしれない。 (※本記事は『哲学の世界』から抜粋・編集したものです。) 「死が死んだ当人にとって悪いと言えるのはなぜか」ということについて考えていこう。ここで「悪い」というのは倫理的な意味ではなく、痛みや不快感などのような意味での「悪い」である。 「なんでそんなこと考えなあかんのや」と思うかもしれないが、この議論を通して、私たちはそもそも「私たちにとって〈良い〉とか〈悪い〉とはどのようなものなのか」についてよく知らなかったということが明らかになるだろう。 なにが良く、なにが悪いのかを知ることは、倫理的な意味での善い悪いにももちろんつながっていく。なぜなら、一般的に言って、他者にとって悪いことをするのは倫理的に悪いことだし、良いことをするのは倫理的に善いことだからだ。また、私たちにとって「良い人生」とはなにかを考えることにもつながっていく。
死が恐ろしいのはなぜか
一般に、例外はあるものの、私たちの多くは死を恐れるだろう。それはなぜだろうか? もしくは人を殺すことはなぜ倫理的に悪いことなのだろうか? ひとつの答えとしては「死が死んだ当の本人にとって悪いことだからだ」というものがあり得る。 ここで「悪いこと」というのは倫理的な意味ではなく、痛みや不快感などのような意味での「悪いこと」という意味である。そして一般に、相手にとって悪いことをすることは倫理的に悪いことである。もし死が私たちにとって悪いことであるならば、死を恐れることも、殺人が倫理的に悪いこともおかしなことではない。 たとえば、怪我が私たちに「痛み」という悪いことを与えるものなので、怪我をすることを恐れるのはおかしなことではないし、他者を傷つけることは倫理的に悪いことである、というのと同様である。 だが問題は「死はなぜ悪いのか?」という点にある。死者はもう存在しないのだから意識も感覚もない(というのがふつうの考えかたなので本書でもこの立場をとる)。それゆえ、死者には痛みも不快感もない。それなのに、なぜ死は、その当人にとって悪いことだと言えるのだろうか? 「死そのものが悪いのではなく、死は(死の前もしくはその瞬間に)痛みを伴うから、その痛みが悪いのだ」と言うかもしれない。しかしそれならば、なんの前触れもなく痛みもなく、いつも通りに床について眠ったまま死ねば死は悪いことではないのだろうか? もちろん実際に死に伴う痛みさえなければ死は怖くない人もいるのだろうが、「なんとなくそう思っているだけでよくよく反省するとそうではなかった」という人もいるだろう。それを判断するために次のような思考実験を考えてみよう。 あなたはある病気にかかりましたが、我慢できる程度の苦痛を伴う手術を受ければ絶対に治ります(今後の研究のために手術代は無料にしてくれるとする)。しかし手術を受けなければ確実に半年で死にます(過去の統計では100%)。ただしその半年間も死ぬ瞬間もまったく苦痛はありません。なお、あなたはとくに生きること自体に苦痛を感じているわけではありません。 もし死を恐れる理由が痛みにしかないならば、手術を受けるのはおかしい(手術をすると痛みがあるのだから)。だが、多くの人は手術を受けることを選ぶだろう。なかには、それでも手術を拒否するという人もいるかもしれないが、おそらく稀であろう。 また、「死は当人にとって悪いことではないとしても、家族や友人などにとって悪いことであり、家族や友人を悲しませるのを恐れるのだ、そして同様の理由で人を殺すことも(その被害者の家族や友人を悲しませることになるので)倫理的に悪いことなのだ」というのも適切な答えとは言えない。 もしそうならば、身寄りもなく親しい人もいない者は痛みを伴わない死を恐れないということになるし、そのような人物を痛みなく前触れもなく殺すことも倫理的に悪いことではないことになる。もしかしたらそうなのかもしれないが、「身寄りもなく親しい人もいない者を痛みを感じさせずに前触れなく殺すことは倫理的に悪くはない」という見解は、すくなくとも精査なしに簡単に受け容れるべき見解ではない。 本章(『哲学の世界』4章)では、死が死を被る当の本人にとって悪いことなのかどうかを、古代ギリシアの哲学者エピクロスによって提出されたパラドクスを分析しながら議論しよう。
森田 邦久