古墳巡りは地元の変化を実感できる!はにおくんが、地元・岡山県で活躍した吉備勢力に思いをよせてみた。
皆さんは冬休みどのように過ごしましたか?今回は『冬休みの歴史研究』と題して、今まで登場してくれた歴史人キッズが自分の好きな分野の歴史を自由に調査し、発表してくれます!歴史好きのみんなはどんなことに注目しているのかな?歴史を調査してどんな想いをもったのかな? 今回も〝はにお@駆け出し古墳めぐりすと〟こと板東郁仁くんが地元・岡山の古墳群を調査してくれたよ! ≪冬休みの墳活(2):古代吉備の勢力に思いを馳せて≫ 古代吉備(現在の岡山県周辺の地域)の古墳築造の最盛期、吉備の中心部は岡山県南部を北東から南西に向かって流れる足守川周辺の地域にあった。足守川の東岸には、円墳として国内第3位の大きさの小盛山古墳や、県内第5位の前方後円墳である佐古田堂山古墳などの巨大古墳が築かれた。吉備の巨大古墳は、山から突出して伸びる尾根を切断し、古墳の形に整形することで築造されている。 これらの古墳の被葬者の子孫が、足守川の西岸に造山古墳を築いたと考えられている。造山古墳は県内第1位、国内第4位の超巨大前方後円墳で、全長は約350mある。登れる古墳としては国内最大であり、見学することもとても楽しい。前方部には熊本県で産出される阿蘇溶結凝灰岩で作られた長持型石棺が置かれていて、岡山市による後円部の発掘調査からは香川県産安山岩の板石が出土した。さらに、造山古墳には「陪塚」と呼ばれる関係者の古墳が周辺に6基も築かれており、その中には北九州や朝鮮半島からわたってきた遺物が出土した古墳もある。このように、造山古墳の被葬者はとても大きな権力を持っていたことが分かる。 しかし、その後この地域では巨大古墳は築かれず、造山古墳から山を越えて西の3kmほどのところにある総社平野に吉備の中心は移った。総社市には造山古墳の被葬者の後継者の古墳とされる作山古墳が築かれた。作山古墳が築かれた三須丘陵では、稲荷山古墳群や緑山古墳群など、巨大な横穴式石室を持つ古墳が数多く築かれる。6世紀の終わり頃には、全国で3番目に長い横穴式石室をもち、県内最後の大型前方後円墳であるこうもり塚古墳が築かれた。しかし、造山古墳の周辺では巨大古墳が密集して築かれることはなかった。 今回は、造山古墳の周辺に6世紀頃に築造された2つの古墳群を訪れた。 まず、向場古墳群を訪れた。造山古墳から徒歩で5分ほどの距離にあり、30基ほどの古墳が山の斜面に密集して築かれている。雑木林の中にこんもりとした古墳が点在し、横穴式石室が開口している古墳も多い。開口部から石室を覗くと、小型の石材で築かれた石室を半ば埋もれた状態で見ることができる。 造山古墳から北に1kmほどの場所にある庚申山の山麓にも、10基ほどの古墳が築かれている。庚申山古墳群にも横穴式石室が開口している古墳があるが、向場古墳群と同じように、小型の石材で築かれた石室に土砂が流入していた。なんとか体を滑り込ませて石室に入ると、小さな石材を組み上げて奥壁が築かれていること、側壁の石材も面があまり揃っていないことが分かった。 向場古墳群と庚申山古墳群の石室は、三須丘陵に築かれた古墳群の石室よりも小型で、石材の加工も乏しかったことから、築かれた時代が古いように感じた。古墳を訪れて石室に入ると、石がいろいろなことを教えてくれる。時代の経過とともに、古代吉備の勢力が総社平野へと移り変わったことを実感できた古墳巡りとなった。
板東郁仁