<センバツ21世紀枠・チカラわく>/1 釜石(16年・岩手) 声援、街再生の礎
19日に開幕する第93回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催、朝日新聞社後援、阪神甲子園球場特別協力)は新世紀を迎えた2001年の「21世紀枠」創設から21回目の大会となる。困難克服など高校野球にふさわしい活動を実践しているチームに甲子園への道を開いた21世紀枠。ここからチャンスを得た学校や選手たちはその後、どのように成長・飛躍したのか。選手たちの今を追い、21世紀枠の20年を考えた。 「地域や学校の人たちの応援があったからこそ頑張れた」。東日本大震災から5年余り。2016年の第88回センバツ大会に21世紀枠から出場した釜石(岩手)は「復興への希望の光」と注目を集めた。3番打者、二塁手として出場した盛岡市の岩手大4年、奥村颯吾さん(22)は「被災地の代表」という気負いこそなかったものの、これまで支えてくれた人たちへの思いを込めて甲子園のグラウンドに立った。 震災時は小学6年生だった。「卒業式の予行演習が終わった直後だった。古い体育館がかなり揺れ、隠れる場所もなく友達と一緒に固まっていた」。自宅は内陸部にあり、津波の被害はなかったが、海に近い父謙治さん(51)の実家は、津波にのまれた上に発火した車の火が燃え移って全焼した。奥村さんに野球を勧めてくれた謙治さんは野球の強豪校・東北(宮城)出身。甲子園にも出場したが津波は父の思い出の「甲子園の土」をも流し去った。 釜石の野球部には親が犠牲になった仲間や行方不明のままの仲間もいた。市内各所に仮設住宅があり、多くの人が窮屈な暮らしを強いられていた。「野球道具を送ってもらうなど全国からの支援で野球を続けられた。近所の人たちにはいつも声をかけていただいた。声には出さなくても甲子園で元気な姿を見せることが恩返しだ、とみんなが思っていた」と奥村さん。 甲子園は市民の関心も高く、試合を中継するテレビの前に人が集まり市中心部から人影が消えたほど。奥村さんは、1回戦の小豆島(香川)戦で貴重な追加点となる適時二塁打を放つなど攻守に活躍し、勝利で期待に応えることができた。大学では防災工学を学び、春から上下水道を中心とする建設コンサルタント会社で働く。いずれ被災地のインフラ整備でも恩返しをしたいと思っている。 ◇復興仲間、スタンド一体 釜石の初戦。一塁側スタンドから生徒らに交じって声援を送ったOB会長の小国晃也さん(42)は、第68回大会に初出場(当時は釜石南)したメンバーだった。釜石市に隣接し、津波の大きな被害を受けた大槌町の職員でもある。「復興支援で大槌に来てもらった各自治体の職員の方とも一緒に応援した。小豆島の方もいて、みんなが一つになれるいい機会だった」。ともに復興を目指した各地の人が集う。町の職員として復興を担っていた小国さんにとって「2度目の甲子園」も思い出深い大会だ。 だが、ナインは当初21世紀枠での出場を喜んでいたわけではなかった。前年秋の県大会で準優勝。20年ぶりに東北大会に駒を進めた。現在も母校の釜石で監督を続ける佐々木偉彦(たけひこ)さん(37)は「決勝まで勝ち進み(一般枠で)センバツに行こうと選手に話をしてきた。初戦の東北(宮城)戦で惜敗したのが悔しくて……」。二塁手の奥村さんも「複雑な思いだったが、プレーで実力を認めてもらおうと話し合っていた」という。 当時、釜石市では災害公営住宅建設や土地のかさ上げなど復興に向けたスケジュールが遅れ、完成を待ちきれずに花巻市など内陸部で自宅を再建する人も出始めていた。一方で、仮設住宅に残らざるをえない被災者もいて、被災直後の苦しみとは違った重苦しい空気が街を覆っていた。 同校も親が犠牲になった部員や行方不明のままの部員がおり被災地の出場校として注目を集めていく。当時の部長で、現在は盛岡三野球部部長の小谷地太郎さん(39)は「生徒たちも、取材が多くなるにつれて重荷に感じていたよう」。しかし、選手たちは「遠くにいるOBらに頑張っている姿を伝えられる。ありがたく思って対応しよう」と話し合うようになった。「短い期間で成長したなと感じた」と振り返る。 小国さんが働く大槌町では昨年3月、仮設住宅の供用が終了し、入居者全員が再建した自宅や災害公営住宅に転居して新たな生活を始めている。もちろんすべてが震災前に戻ったわけではないが、小国さんは「震災時を考えると、今のような生活が送れるようになるとは思ってもみなかった」。言葉では簡単に表せないほどの10年間。「後輩たちには元気をもらった。私自身も高校時代、甲子園のグラウンドに出た瞬間の感動は今でもはっきりと覚えている。その自信と誇りは今の生活に生かされている」【中田博維】=つづく