『ブギウギ』から紐解く戦争と喜劇の関係性 チャップリンや榎本健一が一歩を踏み出す力に
放送中の朝ドラ『ブギウギ』(NHK総合)では数週にわたり、戦時下の日本を丁寧に描いてきた。人々の営みの背後には絶えず不穏な「戦争」の気配があり、史実を知っている私たちからすればどうにも落ち着かないものだったのではないだろうか。 【写真】『ブギウギ』「別れのブルース」を歌う菊地凛子 ヒロイン・スズ子(趣里)はいつだって明るい。どれだけ辛く苦しいことがあろうとも、快活に振る舞ってみせる。それは彼女の背後に、そして『ブギウギ』の世界観の背後に絶対的なものとして存在する、「戦争」に対抗するためのものでもあっただろう。彼女の歌声をはじめとするパフォーマンスは、大変な時代だからこそ必要だったわけだ。 これは史実でももちろん同じ。人々は少しでも前を向けるものを欲した。現代を生きる私たちだってそうだろう。大変なときにこそ、やはりポジティブな気持ちになれるものが欲しい。できることなら笑って過ごしたい。そう、現実がほとんど「悲劇」なのだから、私たちは「喜劇」を欲している。 しかし当然ながら『ブギウギ』でも描かれてきたように、戦時下では明るい振る舞いを控えることが求められた。映画監督も音楽家たちも、民衆の戦意を高揚させることが一番に求められていた事実がある。歴史を振り返れば、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演した名作『カサブランカ』(1942年)などが国策映画の系譜にあるし、日本にも清水宏が監督を務め、李香蘭(のちの山口淑子/シャーリー・ヤマグチ)が主演した『サヨンの鐘』(1943年)などがあるのだ。 いずれも“明るさ”とは無縁の映画である。本来ならば「国策」とは無縁のコンテンツが必要だったはずだ。2023年公開の日本映画であれば、『ゆとりですがなにか インターナショナル』や『翔んで埼玉 ~琵琶湖より愛をこめて~』などの作品が、である。 もしも現在の日本が戦中であったならば、上記の「喜劇」に分類される2作品は不適切な映画として扱われただろう。しかし、世界各地で争いが起こっているいま、日本は戦後どころか戦前でも戦中でもない。とても曖昧で危険なところに立っている。シビアな現実に目を向けることも重要だ。だが、やはり“明るさ”や“笑い”のある「喜劇」こそが必要だろう。 正直なところこれまでの歴史上において、「喜劇」はその時代を生きる人々を救うことはできなかったのではないかと思う。本質的に「喜劇」が民衆を救いはじめたのは、戦争などの混乱から人々が立ち上がっていく際にだ。日本においては“エノケン”こと榎本健一がその中心人物である。 この令和を生きる私たちは、これらのことを身をもって知ることはなかなかできない。歴史を振り返ってみても、それらは単なる事実でしかない。ならば、本当に「喜劇」は必要なのだろうか。 ファティ・アキン監督の手がけた映画に『消えた声が、その名を呼ぶ』(2014年)というものがある。物語のはじまりの舞台は第一次世界大戦中のオスマン帝国・マルディン。妻や娘と引き離されて過酷な運命に遭った主人公のナザレット(ハール・ラヒム)が、“声”を失いながらも家族の元へと向かうさまを描いた作品だ。 同作には一本の(悲)喜劇映画が登場する。チャールズ・チャップリンによる『キッド』(1921年)だ。本作は、捨てられた子を拾った放浪者が、やがてその小さな子との特別な信頼関係を築いていくというもの。これを『消えた声が、その名を呼ぶ』の主人公・ナザレットは、流れ着いた先で観るのだ。そして笑い、泣き、劇中の登場人物たちと、家族と引き裂かれた自分自身とを重ねる。 これは特別な状況かもしれない。喜劇王であるチャップリンにとって『キッド』は、ちょっと異色の作品でもある。しかしもしもナザレットが目にした映画が単なる親子の悲劇であったならば、彼のその後の動向は変わっていたかもしれないと思う。 『キッド』が感動作なのは間違いない。けれども、同作がつねにコミカルなトーンで描かれていることが与える観客への影響は大きいはずだ。ナザレットは極限状態で笑うことができたからこそ、作品のテーマを受け取り、自身の行動に反映させられたはずなのだ。 さて、いまの私たちの社会ではどうだろうか。もう思い切って言ってしまうが、やはり現実のほとんどが「悲劇」なのではないかと思う。“笑い”や“明るさ”が必要だ。そう、人々が気力を取り戻していくには、新しい一歩を踏み出すためには、「喜劇」が必要なのである。
折田侑駿