阪神大震災から17日で30年 〝神整備〟阪神園芸・金沢健児さん「私は母と妻と甲子園に生かされている」
6434人の命を奪い、4万3792人の負傷者を出した阪神大震災から17日で30年になる。甲子園球場の〝神整備〟で知られる阪神園芸の金沢健児・甲子園施設部長(57)は最愛の母を震災で亡くした。母の勧めで就いたグラウンド整備の職。母と甲子園に生かされている-の思いを胸に、球団創設90周年のアニバーサリーイヤーに臨む。 暗闇の中で、炎がいくつも上がっている。神戸市東灘区の自宅マンションの12階から見た光景にがく然としました。何が起こっているのか分からず、夢かと思いました。 日が昇るのを待ってマンションを出発。灘区にあった木造建築の実家は倒壊し、燃えていました。周りの家も火に包まれていて近づくこともできません。女手一つで育ててくれた母・静江はもう助からないかもと感じました。 消防隊の数も足りなくて、自然鎮火を待つのみ。5日ほど経ち、ようやく遺骨を拾うことができました。母は52歳でした。 2月の高知・安芸市での春季キャンプ中、夜はホテルの自室でNHKテレビを朝までつけっぱなしにしていました。夜通しで神戸の様子を流していたからです。もちろん涙も出ましたが、ここから頑張らないといけないし、前に進むしかないと決めました。 今の仕事に就けたのは母のおかげです。母はもともと飲食店で働いていましたが、あるときから甲子園球場で働き始め、グラウンドキーパーに欠員が出たことを知り、勧めてくれました。私は1988年に入社。球団マスコットガールに採用されてボールガールを務めていた妻と知り合いました。 結婚したのが94年12月。もし、そのタイミングで結婚していなければ、震災のときも実家に住んでいたはずで、きっと私はこの世にはいないでしょう。母、妻、そして甲子園に生かされていると思っています。 仕事終わりの母を待つように、私は小学生の頃から毎日のように甲子園にきていました。藤田平さん、江本孟紀さん、掛布雅之さんたちが、みんなよくしてくれて…。中学の野球部で肩を痛めて捕手から一塁に転向したときは藤田さんがファーストミットを贈ってくれたり、掛布さんはオープン戦で3打席連続本塁打を放ったバットをプレゼントしてくれたり、本当にかわいがってもらいました。 阪神大震災のとき、藤田さんは2軍監督を務められており、春季キャンプで「何かあれば言えよ」と声をかけてくれました。藤田さんの家も大変なことになっているのに、です。阪神以外でも金村義明さんや山本昌さんらも私のことを知らないはずなのに「頑張れ」と言ってくれたり、心遣いがありがたかったです。