松坂大輔(1999年西武ドラフト1位)「平成の怪物」の忖度 本当に横浜が意中の球団だったのか?
今となっては笑って振り返ることができる。ただ22年前、18歳の青年が直面した現実は容赦なかった。大人が、世間が、注目の若者から寄ってたかって搾取しようと群がる異常な光景。それでもほぼ、人前で自分を失うことがなかった心の強さは、現在にもつながる。いつまでも語り継がれるであろう「平成の怪物」のフレーズ。1999年、西武ライオンズドラフト1位・松坂大輔の周辺は常に三密状態だった。 本人も覚悟をしていただろう。春のセンバツで優勝投手となり、夏の甲子園でも連覇。しかも、決勝の京都成章高戦ではノーヒットノーラン。野球漫画のような結末を演出してみせた。最後の打者を三振に打ち取った瞬間、くるりとスコアボードのほうへ向いたのはカメラ「映え」を狙ってのもの。当時から大人びていた。決勝へたどり着くまでのPL学園高、明徳義塾高との激戦もドラマをさらに盛り上げた。老若男女、多くの野球ファンが松坂大輔の虜とりこになった。 何もかもが思いどおりに進んでいく。「持っている」なんてものではない。全知全能、野球の神様に憑依(ひょうい)されたかのような勢いがあった。だが、進路を決めるにあたっては思惑どおりとはいかなかった。ドラフト前となるとプロ志望なのか、意中の球団はどこかと報道も加熱。「意中球団は横浜ベイスターズ、それ以外なら社会人野球」という見出しが既成事実のように世間にも認識されていった。 若者の進路は自分の意思に従ってギリギリまで悩み、最後は自由意思で決定すればいい。そんなことは誰にでも分かる。だが、「松坂にはこうなってほしい」、「松坂はこうするほうがいい」、「松坂はこうするべきだ」、「松坂はこうしなきゃならない」、「松坂はこうでなきゃ絶対にダメだ」とマスコミも世論もそっとしてはくれなかった。 ドラフト当日の様子を今でも覚えている野球ファンも少なくないだろう。98年11月20日、松坂は意中の横浜に加え・・・
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週刊ベースボール