デザイナー鳥居ユキさん(81歳)夫が亡くなった時、黒柳徹子さんがくれた「お悔みの代わりの言葉」|美ST
40代は肉体も元気で気力も余裕も自信もあるとき
終戦後、母がオリジナルでデザインした洋服を売る「御仕立所」を祖母が開業。「トリヰ」は今年で創業73年。子どもの頃、母はプレタポルテの先駆けデザイナーとして、多忙を極めていました。中学卒業後、文化学院に入学。学校に通いながら母の仕事をワクワクして手伝い、自然と敷かれたレールを歩みました。でも、母からデザイナーを勧められたことは一度もありません。 19歳でデザイナーデビュー。それから61年、休むことなく年2回のコレクションを発表してきました。当初は母と2人体制でしたが、徐々に私の役割が増え、27歳のときから母が経営に回り、入れ替わりに私が「銀座トリヰ」のデザイナーになりました。 40代は特に忙しく、肉体も元気、自分の中に余裕と自信があって、本当によく働きました。32歳でパリコレクションに参加後、すでにパリで活躍していた友人の賢三(デザイナーの故高田賢三さん)のブティックが以前あった、パリで最も美しいパサージュ、ギャルリ・ヴィヴィエンヌに42歳でブティックをオープン。当時はデザイナー同士でパリで遊んで楽しかったわね。 銀座のお店を大きくしたのもこの頃。同時期にファッション感覚で着る洗えるキモノ「シルック」を東レさんと組んで発表しました。話題となり、ショーも開催しました。 その頃、とある女性プロゴルファーの方からゴルフウェアの依頼を受け、自分がプレーしないと作れないと思い、ゴルフを始めました。鉛筆より重いものを持ったことがなく、最初はクラブを持つのも大変。いい先生に出会い、マナーからしっかり叩き込まれ、1年後にはラウンドデビュー。結局ゴルフウェアの仕事は実現しませんでしたが、生涯スポーツとして楽しんでいます。 仕事をしていると、辛いことのほうが多いけれど、40代は悩む暇もないくらい忙しかったです。
夫の死の悲しみを支えた黒柳徹子さんからの手紙
同じ業界で仕事をしていた夫、高雄と出会い結婚。彼は母の死後、会社の代表を務め、公私共に二人三脚で私を支えてくれました。私がデザイナーとして仕事に邁進できるよう、当たり前のように家事をしない私の健康管理を引き受けてくれました。喧嘩もしましたが、離婚を考えたことは一度もなかったです。常に離婚したいと思っていたのなら別ですが、一瞬の気の迷いなら、次に誰と結婚しても同じだから。 でも、彼は私にだけでなく、誰に対しても分け隔てなく優しい人でした。例えば、軽井沢のゴルフ場のキャディーさんにも細やかな気遣いをする人で、「高雄社長はとても優しくしてくださった」と涙を流しながら友人に話していたそうです。本当に心がハンサムな人でした。 毎朝一緒に車で会社まで行く途中、「今日はこの方角がいいから」と日替わりで神社を巡り、家族と会社の幸せを願ってくれました。仕事ひと筋の私はそういう知識もなくてすべて夫に頼りきり。そんな夫が病に倒れ、2年前に亡くなりました。悲しみに暮れていると、黒柳徹子さんから手紙が届き、そこには「素晴らしいかたにお会いになられたことを、おいわいいたします」と書かれていたんです。お悔やみの言葉ばかりのなか、このメッセージは力強く、私の支えになりました。当時はずっとバッグに入れていました。 今は夫が亡くなった辛さはなく、一緒に暮らしている感覚です。なので「行ってきます」「ただいま」は忘れないですね。 27歳で娘を出産。出産後は山王病院でお世話になったベテランの乳母さんに3歳までお世話になりました。その後は、祖母も母も元気だったのでみんなで子育て。コレクション時期は学校を休ませてパリに連れて行き、反抗期もありましたが、大勢の中で育て、両立が大変だった記憶はありません。でも祖母も母も亡くなったときはいつも私がコレクションでパリにいました。娘はパリに行くと誰かが死ぬのではないかと不安になり、「無事帰る」という願いを込めて財布に小さな蛙を入れてくれました。 家族の愛があったから、ここまで頑張れたのだと思います。
鳥居さんが40代に伝えたいこと
令和の今、人生は100年時代になりました。40代は人生の中間地点ともいえる時期。この時代にやりたいことをやって、自分に自信を持って生きれば、50代以降に輝く人生を歩めます。 2024年『美ST』2月号掲載 撮影/大森忠明 取材・文/安田真里 編集/和田紀子