「治らない」けど「辞めたくない」日本一へ向け、ノック打ち続ける駒大苫小牧・学生コーチの覚悟
駒大苫小牧・松本千拓(ちひろ)学生コーチ(3年)は仲間に寄り添って声をかけ、ノックバットを繰り返し振った。 「この目がもう治らないと悟った時は、真っ先に野球のことで頭がいっぱいになりました」 辺り一面に雪が降り積もる2月、南北海道の強豪・駒大苫小牧高校野球部の密着取材に訪れた。 18年春のセンバツ以降は甲子園出場が途切れているが、今でも日本一を目指す多くの中学生が門をたたく。今春も、41人の新入生が入部した。 取材前、佐々木孝介監督にどの選手にインタビューすべきかを聞くと「うちには学生コーチがいるんです。元々はプレーヤーとして入部してきた子なんですが、1年生の時に練習中の不慮の事故で目をけがしてしまって。それでも辞めずに戻ってきてくれて、僕たちスタッフも周りの選手もめちゃくちゃ信頼しているので、是非取材してみてください」と、すぐさま返事が返ってきた。 名前だけ教えていただき、選手がグラウンドに現れるのを待った。授業の終わりを告げる鐘が鳴る。数分後、大きなかばんを背負った野球部員たちが、雪道を小走りしながらやって来た。練習着に着替えるために部室に入っていく選手たちをグラウンドから眺めていると、早々と着替えを終えたひとりの選手が、トンボを持って現れた。 「こんにちは」。気持ちの良いあいさつと、人なつっこそうな笑顔を見た瞬間のことを、今でもハッキリと覚えている。雪に覆われた真っ白な空間に、暖かなオレンジ色の夕日が差し込み、選手の瞳を照らした。 誰よりも早くグラウンドに現れたその青年は、とてもきれいな目をしていた。そんなことを考えていると、彼は続けて言った。 「学生コーチをしている松本千拓と申します。今回の密着取材、よろしくお願いいたします」 佐々木監督から聞いていたその名を不意に聞き、一瞬鼓動が早まった。 練習が始まると、彼を中心にその日のメニューが動き出した。的確な声がけやアドバイスに、選手が応える。スタッフと並んで雪上ノックを打つ姿も、様になっていた。 4月に新3年生となった松本学生コーチは、06年、駒大苫小牧が夏の甲子園3連覇に王手をかけたその年に、北海道・芽室町で誕生した。 松本学生コーチ 駒大苫小牧が04年、05年に甲子園で優勝していて、自分が生まれた06年はかなわず、でもそこに縁があると感じて。06年生まれで、また日本一になれたらすごいかなという、夢というか目標があったので駒大苫小牧を選びました。 志高く、本気で日本一を目指して駒大苫小牧にやって来た。しかし、高校1年の11月、秋のオフシーズンに突入して間もなく、練習中の事故でボールが左目に直撃した。まぶたが切れ、出血し、目が開けられないほど腫れ上がった。あまりの痛みに、当たった瞬間は「魂が抜けたような感じだった」と語る。すぐに病院に行き、2針を縫った。けがから2~3日が経過し、ようやく腫れが引いた。ゆっくりと目を開けると、今までと見え方がちがっていた。 松本学生コーチ 周りは見えるんですけど、中心が一部分見えなくて。「あれ、なんかおかしいな」と思って、すぐに大きな病院で診てもらいました。自分では、だんだん良くなっていくだろうと思っていたのですが、「網膜が損傷している」と言われた。その時に「ああ、治らないんだな」ということを実感した。 もう野球はできない。そう悟った瞬間、付き添った母沙哉香さんと二人、泣き崩れた。 松本学生コーチ お母さんと一緒になって号泣しました。別室に呼ばれるくらい号泣してしまって。この先どうしようかっていう不安もありましたし、とにかく野球のことで頭がいっぱいでした。 突如として目標を見失い、自分の人生がどうなるか分からない状況に、精神的にも追い込まれていった。その姿に、佐々木監督も心を痛めていた。「どうにかならないか、どこかいい病院がないか、毎日、北海道中の眼科医に電話していました。あの時は本当に、わらにもすがる思いでした」。そして、落ち込む松本学生コーチに2週間ほど地元に帰るよう提案した。 気持ちが落ち込んだまま帰省した松本学生コーチは、幼少の頃からお世話になっていた人たちに会いに行った。けがで野球を続けられなくなってしまったこと、今後の相談など、いろいろな話をした。野球をする自分を応援してくれていたのに、それに応えられない。それでも、昔と変わらず寄り添い、親身になって聞いてくれる人たちを見て、張り詰めた心がゆっくりと解けていく。 松本学生コーチ みんなと話をした時に、やっぱり野球は辞めたくないなと思いました。小学3年生で野球を始めて、いろんな人に支えられながら成長をさせてもらって今の自分があります。小学生の頃に教えてくれた方や中学校の監督だったり、そういう方々への感謝というのは、甲子園に行くことや勝つことで恩返し出来ると思うので。あの2週間で前向きになれました。 部に戻った松本学生コーチは、すぐに監督室に向かった。「このまま野球部で一緒にやらせてください」。辞めずに戻ってきた松本学生コーチの姿が、そのひと言が、佐々木監督はうれしかった。そして、学生コーチという役割があることを伝えた。大学へ進学しても活躍できることを視野に入れた提案だった。 その日のうちに、佐々木監督が「千拓は学生コーチでやっていく」とチームメートへ伝えた。松本学生コーチ自身も思いを伝えた。「日本一を目指すという目標はみんなと変わらないけど、違う形でみんなのサポートを全力でやるから、これからもよろしく」。松本学生コーチがチームに戻ってきたことは、仲間もうれしかった。小林航太郎主将(3年)は「辞めるかもしれないと聞いていたので、明るく元気に戻ってきてくれてよかったです。野球がやりたくてもできない人が身近にいて、自分は何不自由なくできている。そのことに感謝をして、全力で日々の練習をやろうと思いました」と振り返った。 そこからは勉強の毎日だった。東都大学野球リーグの強豪・亜大で、当時監督を務めていた生田勉元監督の協力もあり、同大学の練習にも参加。学生コーチの役割を肌で感じ、学んだ。 松本学生コーチ 僕がお邪魔した亜細亜大学では、学生コーチの方が練習も全て仕切っていて。メニューの確認や、もっといい練習にするにはどうしたらいいのかを、常に第一に考えていました。学生コーチがいるからこそ、チームがあるように見えました。 いざやってみると、頼られることも任されることも増えた。スタッフから求められることや選手の考えを擦り合わせ、どうすれば練習の質や選手のモチベーションが上がるのか。常に野球のことで頭がいっぱいだった。毎日記録する野球ノートも、その日の反省や改善策でびっしりと埋まっている。 グラウンドが一面雪に覆われる冬も、やわらかな風が吹く春も、誰よりも先にグラウンドに出て準備をする。最初は、選手に対してどう声をかけていいか分からなかったが、今は誰よりも声を張る。 松本学生コーチ 人に言うということは、自分がやってないと言えません。なので、とにかく練習も普段の生活も全力でやると覚悟を決めました。そうしていく中で、やればやった分だけ言葉が出るようになりました。心がある言葉は絶対に伝わりますし、今は言葉の力を大事にしながら、両親や地域の方、いろんな人が支えてくれて野球ができていることに感謝して、みんなと一緒に成長していくことを目標にやっています。そして、やるからには本気でてっぺんを狙いにいきます。 まずは高校で日本一、そして、大学進学後も「バリバリやりたい」と、力がみなぎる。けがの直後、不安でいっぱいだった未来とも、今はしっかりと向き合える。 学生コーチになってから芽生えた「教える立場に立ってみたい」という、もう一つの目標。「指導者だったり、教師もそうですけど、いざやってみたら自分はこういった役割・役職が好きなのかなと思ってます」と話す。 左目の中心が一部分見えない事実を、松本学生コーチは踏まえて先に進もうとしている。学生コーチは駒大苫小牧で仲間と高校野球をやり切るための、松本学生コーチが選択した球児の姿だ。決して何かが楽になったり、現実の厳しさが薄まるわけではない。不運だと感じる人もいる中で、松本学生コーチのはつらつとした振る舞いは、強烈なインパクトを残す。 夏に勝つために、最後の一瞬まで戦い抜いたと納得するまで、仲間に寄り添って声を上げ、ノックを打つ日常は、たくましく積み重なっていく。【青山麻美】