「いじめじゃないの?」「不快すぎて見てられない」…「ラヴィット!」への一方的な“モラハラ批判”が危ういワケ。「水ダウ」「ドッキリGP」も炎上…番組は不適切だったのか
「ドッキリGP」の主な批判内容は、「番組の安全管理が不十分」「ケガの危険性をわからなかったとは思えない」。 どれも一理ある指摘であり、これらの批判を受けた制作サイドは「不適切ではなかった」と言い切れないのではないでしょうか。しかし、だからと言って「『もうやらない』という結論ありきで排除してしまうのか」は別問題です。 ■「排除ありきの批判」が危うい理由 今回の3番組は多少なりとも適切とは言いづらいところがあっただけに、批判を受けて何らかの改善策を考えていくことが必要なのは間違いないでしょう。
たとえば、不快感を軽減させる構成・演出とフォローの言葉、見たくない人が避けられる放送・配信での事前告知、リスクを回避する1ランク上の準備と配慮など、制作サイドが対応できることは少なくありません。 制作サイドには、定型的な謝罪や反省のコメントにとどめず、具体的な言葉で発信していく姿勢を求めてもよさそうです。 ただその一方で「批判は世間の総意ではなく、回避できないものとは言い切れない」のも事実。実際、「ラヴィット!」や「水曜日のダウンタウン」を見て「不快」「不適切」などと感じた人だけではなく「面白かった」「笑った」という声も少なくありませんでした。
3番組の中で最も批判が多かった「水曜日のダウンタウン」の水攻めですら、単純に白とも黒とも言いづらいグレーなニュアンスが感じられます。 「テレビで許容される表現の幅」に対する個人の見解に差があり、批判だけを採り上げて排除すると、もう一方の意向を無視することになりかねません。 特に排除ありきの批判がまかり通る世の中では、自分が「不快」「不適切」と思う番組を排除できる一方で、自分が「面白い」「笑った」という番組も排除されてしまう危険性があるのです。
さらに排除ありきの批判がまかり通るムードはテレビ番組にとどまらず、ジワジワと他のエンタメにも広がっていくかもしれません。 もともとテレビ番組は見なければいけないものでも、見ることを避けられないものでもない、あまたあるエンターテインメントの1つ。生命にかかわる衣食住に付帯したものではなく、民放の番組には対価も払っていないなど、排除ありきで接する必然性は感じられません。 ■「議論停止型」ではなく「対話型」に