感情が溢れた文章には狂気が宿る…星野源が闘病で、さくらももこが祖父の死に面して綴った文章に映る「書くしかない」想いの強烈な魅力とは
DVDか、それともエロ本か
次は、熊谷真士のブログ『もはや日記とかそういう次元ではない』内の記事「精液検査をしにいったら、射精をする部屋でパニックに陥ったのでレポートします。」から。 精液検査用クリニックを訪れた熊谷真士が、精液採取の部屋でDVDで採取するのか、エロ本で採取するのか迷った末に出した文章です。 時代は流れ、街はうつろい、社会は変容する。それでもエロ本の持つ唯一無二のエロ本性というものは決してブレることなく、ただそこに存在し続ける。それは行く川の中で流れに逆らい続ける岩場のようであり、その普遍性は美しい数式に酷似している。ページをめくるたび掻き立てられるノスタルジーに圧倒され、僕は息を飲んだ。エロ本というのは決してAVの下位互換ではない。ふと辿り着いたページ。大きめのフォントで記された文字列が僕の目に飛び込む。「ロリータ人妻による絶叫は、まさにダイナソー」。意味が全く分からない。 よし、エロ本でヌこう。僕は決意した 正確に言うと、エロ本でヌくのではない。エロ本の先にある、「普遍性」でヌくのだ。普遍性をおかずに出来るチャンスはそうない。 (もはや日記とかそういう次元ではない「精液検査をしにいったら、射精をする部屋でパニックに陥ったのでレポートします。」より) 下品極まりない言葉の中に突然現れる「それは行く川の中で流れに逆らい続ける岩場のようであり、その普遍性は美しい数式に酷似している」という美しい一文。この一文によって、お下劣ブログが一気に「文学」になる。 熊谷真士の底の見えない変態性と、確かな知性が感じ取れる美しさすら感じさせる文章です。
さくらももこの天才的な構成力
最後は『ちびまる子ちゃん』の作者・さくらももこのエッセイ集『もものかんづめ』(集英社)に収録された「メルヘン翁」から。 さくらももこの祖父が死去し、そのことを姉に伝えたときの文章です。 「ジィさんが死んだよ」と私が言ったとたん、姉はバッタのように飛び起きた。「うそっ」と言いつつ、その目は期待と興奮で光り輝いていた。私は姉の期待をますます高める効果を狙い、「いい? ジィさんの死に顔は、それはそれは面白いよ。口をパカッと開けちゃってさ、ムンクの叫びだよあれは。でもね、決して笑っちゃダメだよ、なんつったって死んだんだからね、どんなに可笑しくても笑っちゃダメ」としつこく忠告した。 姉は恐る恐る祖父の部屋のドアを開け、祖父の顔をチラリと見るなり転がるようにして台所の隅でうずくまり、コオロギのように笑い始めた。 私は、「あ、お姉ちゃんダメだって言ったでしょ、いくら面白くてもさァ」とますます追い討ちをかけてやったので、姉はとうとうひっくり返って笑い出した。 死に損ないのゴキブリのような姉を台所に残し、私は祖父の部屋へ観察に行った。誰も泣いている人はいない。ここまで惜しまれずに死ねるというのも、なかなかどうしてできない事である。 さくらももこ『もものかんづめ』(集英社)より 祖父が家族からどれだけ嫌われていたのかが、短い文章でここまで鮮明に伝わる凄まじいまでの描写力。「バッタ」「コオロギ」「死に損ないのゴキブリ」と姉を昆虫の三段活用でたとえている天才的な構成力。さすがとしか言いようがありません。さくらももこの面白さが存分に詰まった素晴らしい文章です。 こんな最高の文章だけを一生読んでいたい。そのために文字単価0・1円、1000文字100円のダイソーライターをこの世から一匹残らず駆逐したい。文章界のエレン・イェーガーに私はなりたい。 書こうと思って書いているのではなく、「書かなくてはいけない」「書くしかない」という強い想いが乗った文章にこそ、私は魅力を感じるのです。 文/かんそう 写真/shutterstock