219勝投手・山本昌の矜持から見えた、中日ドラゴンズの強さの理由。
「侍ジャパンでもいろいろ教え合っていますよね。ダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)に投げ方を教えてもらってよかったという選手もいるでしょうけど、コーチからすればとんでもないこと。彼らの立場がなくなりますよね。そういうことも考えているのかなと心配しています。 人から教わることでよくなることもあれば、逆に悪くなることもある。その選手の状態や成長の過程を一番知っているのは、そのチームのコーチだと思うんですけどね」 松岡は2018年限りでコーチを退任。2019年12月いっぱいで昇竜館の館長もやめた。 「プロ野球は新入団の選手と同じ数だけ、シーズン後には退団していく厳しい世界です。僕がクビになる選手に言ったのは『次のステージで頑張りなさい』ということ。『せっかく一生懸命に野球をやってきたんだから、合同トライアウトでも独立リーグのテストでも受けて、もう1回自分の力を試してみたら』と」 プロ野球は、誰もが入れる世界ではない。 「選ばれた人間だけがプレーできる世界で勉強してきたことは、ほかでも役に立つと思います。『だから、胸を張れ』と言います。そして、お世話になった人のところには必ずあいさつに行くようにと」 プロ野球に入る時にはできても、戦力外になった時にはそれを怠る選手が多い。 「僕には何度も自分がクビになった経験があるから、彼らの気持ちはわかります。高校や大学の恩師のところに、いい時には会いにいけるけど、悪い時は難しい。でも、そこでちゃんとあいさつに行けるかどうかですよ」 松岡はコーチとして、スカウトとして、いろいろな選手の「その後」を見てきた。プロ野球で成績を残しながらも、セカンドキャリアでつまずく人もいる。反対に、成果を残せなかったプロ野球での経験を糧に、次のステージで輝く者もいる。 「本当に、いろいろな人がいます。プロでいい成績を残してものすごい金額を稼いだとしても、それはその時だけのこと。人生は長い。ずっと現役選手でいられる人はどこにもいないので。 誰だって、いい時も悪い時もあります。だから、人のつながりを大事にしてほしい。僕はベイスターズのコーチのあとにスカウトになり、その後、中国や明治大学でコーチをやった。ある時、落合さんの目に留まって、70歳を超えてからまたプロ野球のコーチになれました」 高校、大学、社会人、プロ野球で現役生活を送り、コーチ、スカウトとしてさまざまな経験を積んだ松岡だから言えることがある。 「どこで誰が見ているかはわからない。自分でやるべきことに一生懸命になるしかありません。そうすることで、道が開けることがあるかもしれない。 僕は人の縁に恵まれて、いろいろな球団やチームにお世話になりました。その場所、その場所で友達も多くなったし、引き出しも増えました。ものすごい財産になっています」 76歳で松岡はドラゴンズを去った。しかし、野球の神様はまだ松岡を休ませてはくれない。また新たなステージが待っていたのだ。 第14回へつづく。次回配信は2024年6月15日(土)を予定しております。 ■松岡功祐(まつおかこうすけ) 1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。 取材・文/元永知宏