ナタリー・ポートマン単独取材。『メイ・ディセンバー ゆれる真実』が描く、36歳女性と13歳少年の「不倫騒動」のその後
グレイシーに同化していくエリザベス。変化のプロセスをどう構築したのか
―エリザベスはグレイシーに接近し、だんだんと彼女に同化していきます。エリザベスの変化のプロセスはどのように構築しましたか? ポートマン:トッドとたくさん話し合い、グレイシーのまねをしようと考えました。ただ、この映画は準備期間が短く、撮影に入るまでジュリアンがどんな演技をするのかもわからなかったので、最初はとても心配していたんです。 幸い、撮影はほぼ時系列順におこなわれたので、主に序盤のシーンから撮り進めることができました。バーベキューやドレスショップのシーンはかなり早い段階で撮った場面で、そのときエリザベスはグレイシーの舌足らずな話し方や動き方などのクセを研究していますが、じつは私自身もジュリアンの演技をリアルタイムで研究していたんですよ(笑)。 よく話し合ったのは、エリザベスは自分がグレイシーのまねをしている様子を、どれだけ本人に見せるのかということ。映画が進むにつれ、エリザベスはどんどんグレイシーに近づいていき、ひとりきりの場面では声色やクセなどすべてをまねようとします。
「演技」の多層性を描く作中で、「真実」と「嘘」をどう区別して演じたか
―映画を観ていると、現実のエリザベスと、グレイシーを演じる虚構のエリザベスの境目がどんどん曖昧になっていくのがわかります。エリザベスの「真実」と「嘘」を、どのように区別し、どのようにバランスを取りながら演じていましたか。 ポートマン:この映画は「演技」の多層性を描いています。それは女性が日常のあらゆる場面で求められることでもあり、たとえば映画の冒頭、エリザベスがバーベキューに現れて、「私は有名な女優なんかじゃないですよ、ただニコニコしてテレビに出ているだけの、皆さんと同じ人間なんですよ」というような振る舞いをしているのは明らかに「演技」ですよね。 一方、グレイシーが主婦としてあれこれと家事をして、夫にビールを飲ませるのも「演技」です。ならば、彼女たちが本当に自由でいられるのはいつなのか。 ポートマン:エリザベスの場合、それは演技をしているとき、つまり仮面をかぶっているときではないかと考えました。仮面をかぶり、自らの責任から解放されるときに最も自由になれるのではないかと。 ―グレイシーに同化したエリザベスを演じるとき、ナタリーさんはグレイシーをまねるエリザベスを演じているのか、ほとんどグレイシーを演じている状態なのか、実際にはどちらが近いのでしょう? ポートマン:この映画にはメタ的なところがあります。私、ナタリー・ポートマンはエリザベスという女優の役を演じているけれど、エリザベスはグレイシーという女性を演じるための研究をしていますよね。そして、グレイシーはジュリアン・ムーアという役者が演じているんです(笑)。 ジュリアンが面白がっていたのは、ケーキを焼くシーンのために、彼女が職人からケーキの焼き方を教わったこと。ジュリアンが職人から学んだことを、今度は私が学んでいる。そして、劇中でもエリザベスはグレイシーから学んでいます。そのように、「演技」のレイヤーが何層にも重なっているんです。