首里城の地下に眠る沖縄戦の遺構「第32軍司令部壕」、79年を経て現代に訴えるもの
米軍が上陸し、南部撤退を決めた第32軍
1945年3月から沖縄本島への空爆が始まり、同年4月1日、米軍が読谷・北谷海岸に上陸した。旧日本軍と沖縄県民の士気は高く、善戦したが、物量で圧倒する米軍は第32軍の防衛線を次々に突破した。 1945年5月22日、第32軍は司令部壕を爆破して南部の喜屋武半島への撤退を決めた。当時、第32軍の八原博通高級参謀は「首里を最終決戦場とするのではなく、第一線とみれば、まだ持久は可能だ」と主張した。 しかし、日本軍の士気は低下し、当時残っていた約5万の兵力が、南部に到着時には3万人まで減っていた。当初の築城方針では、南部に築城した陣地はすべて海側からの攻撃に備えられていたため、北部から侵攻する米軍には大きな効果を発揮しなかった。 牛島司令官らは6月23日までに自決した。第32軍は首里までは約2カ月間にわたって持ちこたえたが、南部へ後退後は2、3週間しか戦い続けられなかった。 南部撤退の結果、南部に避難していた沖縄県民に多数の犠牲者が出た。沖縄県民の犠牲者9万4000人の半数以上が、この最後の1カ月間に亡くなったとされる。牛島司令官らが立てこもった摩文仁の丘の司令部壕は自然壕を利用したものだったが、まだ軍用ロウソクで明かりを取れるだけマシだった。民間人は食料も明かりもなく、手探りで隠れていたという。
多くの県民が犠牲に
松村氏は「米軍が沖縄に上陸した時点で、第32軍の作戦は米軍撃退のため準備した陣地を死守するという当初の方針のままでした。ところが、戦力が削られているうえ、米軍の戦力が巨大で、とても撃退はできない。しかし、本土への侵攻を遅らせるために少しでも時間を稼ぐ必要があるという判断になったのでしょう」と語る。 第32軍の取った南部撤退は、自衛隊でも「遅滞行動」として作戦の一つに位置付けられている。しかし、それは、戦いながらじりじりと後退して時間を稼いでいる間に、味方の増援を待つというのが前提だ。 当時、米軍が沖縄周辺の制空・制海権を握っていた。本土からの増援はあり得ないというのが常識だった。松村氏は「もともと第32軍の築城は、南部への遅滞行動を前提にしたものではありませんでした」と語る。 首里城下の第32軍司令部壕は、その堅牢なつくり自体が、南部撤退を前提としたものでなかったことを証言している。突然の撤退のため、軍は住民を南東部の知念半島に退避させるように県に指示したが、十分に行き届かず、多くの住民が犠牲になった。 現代では、南部撤退を決めた牛島司令官ら第32軍司令部の判断に批判が集まっている。同時に、本来、実現し得ない「米軍撃退」という目標を維持させた大本営や日本政府の責任も改めて考えなければいけないだろう。
朝日新聞社