「俺だって親ガチャ外れてなければ、東大ぐらい行っていたよ」と東大生に噛みつく人たちの遠吠え
さて新年も明けましたが、実は年末のSNSでは「恵まれた環境論争」という、もう何とも言えない塩辛い殴り合いが続いておりました。 この記事の他の画像を見る きっかけは東大卒タレントによる過去投稿で、 「勉強は努力が報われる分野。環境のせいにして努力しない人は嫌い」 こんな内容の投稿が話題となり、これに「環境が無ければ努力できないだろ」「恵まれた環境だから東大に入れたのでは」「努力は必ずしも報われない」といったバッシングが殺到したんですね。 するとそのタイミングで、あの超有名アーティスト奈良美智さんが「地方に生まれても世界に出られる。その可能性を自分は示した」と燃料をブッ込み、さらには大物ミュージシャン矢野顕子さんがその意見に賛同したもんだから、今度は2人に対して「仕送りもらって美大に通っていたよね」「親が裕福で音楽の英才教育受けた人に言われても」というバッシングが。 でもこれ「隣の芝生に文句言っても意味ないのでは」としか言いようのない話なんですよね。 そもそも「環境が無ければ才能も伸びなかった」なんて大きなお世話だし、また奈良さんや矢野さんみたいな超個性的な才能を「恵まれた環境」だけで完成させられるはずもありません。 バッシングしている人たちって、ある意味「私だって恵まれた環境に育っていたらアートや音楽や学業の世界で同じくらい成功していたかも」と言っているようなもので、おお、なんか凄いね、としか言いようがないのです。
「置かれた場所で咲く」の本当の意味
仕事柄、中高生からネットで連絡をもらうことが多いのですが、中には本当にどうにもならない家庭の問題、地域環境、変えようのない不遇な状況にある子から、わが身を嘆き無気力になりかけた状態で相談をされることがあります。 赤の他人である私は本当に何もしてあげられませんが、そんな時は、 「世界的に見れば、あなたと同じ立場で、同じ困難に直面している人が、少なく見ても数百人はいて、中にはその困難を乗り切ったヤツが数人はいるはず。つまりその困難を乗り切る方法がこの世に存在しているということ。存在しているのに、それを見つけられずに諦めちゃうのって癪では?」 とだけ伝えています。それしか伝えられません。 花は置かれた場所でしか咲けない。でもそれって「自分の境遇を諦めて受け入れろ」とか「限られた範囲で幸せを目指せ」みたいな話ではないはずです。 戦いのスタートラインに立てないのなら、走らずに勝つ方法を考えたって良いし、ルールを変えて戦っても良い、やればいい。そして「恵まれた環境のおかげだろ」とSNSに書き込んでいるだけの人には何も起きない。これは間違いないです。 そもそもこの時代の日本に生まれた時点で、相当「恵まれた環境」ですよ。衛生的で安全であり、銃で撃たれることもなく、テロも少なく、今のところミサイルも飛んできていない。平等に基礎教育を受けられ、安価で医者にも診てもらえ、表現の自由も担保されている。 他の国々の地獄絵図みたいな状況と比べたら、課題はありつつ、この時代の日本に生きていることが相当「恵まれている」のは事実でしょう。 私たちは性格やセンスも違えば生まれも育ちも違う。そこには間違いなく格差もある。「じゃあ楽しく生きるにはどうしたらいいのか」と考え、歩き出せる人が、本当の意味で恵まれている人なのだと思います。 Text:小木曽健(国際大学GLOCOM客員研究員) ※本記事のタイトルはFORZA STYLE編集部によるものです。
小木曽 健