戦国時代のキリシタン大名の夢「理想王国」を目指した【大友宗麟】の失敗とは⁉
キリシタン大名として知られる大友宗麟。日本のキリスト教を中心とした理想王国建国を目指したものの、その夢はかなわなかった……。なぜ宗麟の夢はかなわなかったのか⁉ ■信仰に執心するあまり、家臣と人心の離反を招いたことに気づかず 大友宗麟(義鎮/よししげ)は、享禄3年(1530)豊後・臼杵(うすき)城主・義鑑(よしあき)の嫡男として生まれた。20歳で家督を継いで支配体制を確立した時点から永禄・元亀・天正年間の始めまでの4半世紀、宗麟は賢く強い戦国大名として北九州に君臨。領国・豊後の他に豊前・筑前・肥前・肥後・筑後も併せ、6カ国の大大名となり永禄2年(1559)には将軍・義輝(よしてる)から九州探題に補された。この時点で、領国統一の過程にあった薩摩・島津氏を含め、九州には宗麟に抗する勢力はなかった。 宗麟は22歳の時、来日したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許可した。領内での布教を許し、宣教師を保護したのは、諸大名が熱望していたポルトガル・イスパニアとの南蛮文物の独占にあった。大砲や硝石など戦闘に必要な物資をイエズス会から購入し、富国強兵に使おうという狙いである。 この間には安芸・毛利元就、肥前・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)らとの抗争があったが、義鎮は武力と知謀で乗り越えた。永禄5年、義鎮は入道して「宗麟」と号し、臼杵に教会や修道院などを建設して「キリシタンの町」を造った。天正4(1576)に嫡男・義統(よしむね)に家督を譲り、同6年に受洗して「ドン・フランシスコ」となる。キリシタンへの過大な擁護と心酔が第1の失敗であり、これが宗麟を内部から腐らせた。 「日向でのキリシタン王国建設」という夢(第2の失敗)に取り憑かれた宗麟は、天正6年9月、日向侵攻を開始した。島津軍の侵攻から逃げてきた日向・伊東義祐(いとうよしすけ)の援助という名目で5万という大軍で出陣した大友軍は、十字架の旗を掲げて前進した。あたかも欧州の十字軍さながらであった。しかも行く先々で寺社を壊して焼き、仏教徒や住民を怒らせた。この時点で宗麟と大友軍は、住民を敵に回すという失敗を演じてしまっていた。(第3の失敗) 初戦の高城(たかじょう/宮崎県木城町)の攻略に頓挫した大友軍は、指揮系統に乱れがあった。油断も重なり、島津軍の奇襲に呆気なく敗れた。大軍ではあったが大友軍は、総大将の重臣・田原親賢(たわらちかたか)に指揮官としての能力がなく、烏合の衆と化していたのを宗麟は気付かなかったのである(第3の失敗)。宗麟の頭には「キリシタン王国」の夢しかなかった。現実を観ることをしなくなった宗麟の失態がここにあった。大友軍は、この「耳川(みみかわ)合戦」で一挙に2万ともいう死傷者を出し、大軍は瓦解した。 こうしてキリシタン王国の夢も九州6カ国の太守の地位も失った宗麟は、領国を草刈り場としてしまった。 監修・文/江宮隆之 歴史人2021年09月号「しくぎりの日本史」より
歴史人編集部