「女にうつつをぬかした」と激怒⁉ 男色相手を惨殺した徳川家光の「残酷な所業」とは
かつて男性同士の恋愛において、立場の低い側が浮気をすることは禁忌とされていた。江戸時代の3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)は、男色関係にあった武士がほかの男と戯れているのに激怒して斬殺。ほかの側近が妻を妊娠させた際にも、「女にうつつをぬかした」と激怒し、餓死にまで追い込んだと言われている。どのような経緯だったのだろうか? ■浮気相手を切り殺した徳川家光 日本では長い間、名門の男性には正室とほかに側室を持つことが容認されていました。一方で、立場の低い女性の側が、複数の男性と同時に関係を持つことは許されませんでした。 これは、「男同士の恋」の場合も同様でした。二人の関係の主導権を握るのは、年長で、身分も高い傾向がある「念者(ねんじゃ)」と呼ばれる側の男性。「念者」には複数の同性のパートナーを持つことが黙認される傾向にあったものの、「念弟(ねんてい)」側の若い男性が、複数の男性と同時に関係を持つことは禁忌とされがちだったのです。 しかし、相手より年若くても、身分の高さで関係の主導権を握るケースもありました。徳川幕府三代将軍・徳川家光は16歳の時、坂部五左衛門という(年上の)武士を斬り殺しています。 『大猷院殿御実記』によると、五左衛門は「家光公へ恋慕し奉り、衆道の御知音(ちいん/=家光公の同性愛のパートナー)」だったのですが、ある時、風呂場で別の若い男性と戯れているところを家光が目撃。激怒のあまり彼を斬殺したそうです(『寛明間記』)。 ■「女にうつつをぬかした」と激怒 その後、家光は19歳の時に、京都の公家・鷹司家(たかつかさけ)の孝子を正室に迎えていますが、男色関係のほうがさかんでした。家光が寵愛したのが堀田正盛(ほったまさもり)、酒井重澄(さかいしげずみ)などの側近たちです。 酒井重澄などは下総(しもうさ、現在の千葉)に2万5千石の領地をいただき、大名となるなど破格の出世を遂げていたのですが、1633年、突然の改易の憂き目にあって転落しています。 しかも身柄を引き渡された福山藩で、絶食して自害したそうです。家光の命で食事を与えられず、餓死させられたのではないか、という考えも頭をよぎってしまいますが、真相は闇の中です。 転落の理由としては、2年もの間、病気療養を名目に家光のそばを離れた重澄が、正室に二人、側室にも二人の子供を産ませていたことを家光が知り、「女に現(うつつ)をぬかした」ことを理由に激怒したからだと囁かれていますね。