小説家・小川哲が問う「噓の功罪」とは 『君が手にするはずだった黄金について』書評
嘘つきは、戦争の始まり。噓は、世界の敵。仮にそのような常識が社会に存在するとして、にもかかわらず、噓(少なくとも100%事実ではない文章)で対価を得て、生活しようと企てる非道徳的な存在が小説家という職業である。そしてよりにもよって、本書の著者たる小説家・小川哲は、その噓がべらぼうに上手い。 【写真】注目の小説家・小川哲 本書は6つの文章からなる連作短編集であり、作者自身に限りなく近い存在である「僕」を主人公とする「私小説」的作品である。各編の主人公たる「僕」たちはゆるく繋がっているようであると同時に、あり得た「可能世界」を生きる別々の存在のようでもある。 氏のこれまでの作品を振り返れば、第3回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作のデビュー作『ユートロニカのこちら側』(2015年)から、決定的な出世作となる『ゲームの王国』(2017年)、そして第168回直木賞・第13回山田風太郎賞の受賞作『地図と拳』(2022年)に至る長編作品群はもちろんのこと、短編集たる『噓と正典』(2019年)においてさえ、その噓の上手さを十二分に活用して、文字通り世界を股にかける奔放にして緻密な物語を紡ぎ続けてきた作家だと言える。他方で、前作『君のクイズ』(2022年)がそうであったように、直木賞受賞後の近作では、その圧倒的なエネルギーを一点に凝縮したような、小ぶりながら濃密な作品にも積極的に挑戦し始めている。いわば後者の試みの延長線上にある本書は、小川の作品史でも最も小さな作品であると言えるかもしれない。本作で問題化されるのは、ほとんどただ一点、すなわち、噓の功罪のみであるからだ。 だからこう言ってよければ、噓に少しの興味関心も持ち得ない、という者にとり、本作はほとんど無価値であろう。だが、本作はこう問うている――現代に噓と無関係であり得る人間がどれほどいると言うのか。本書で描かれるのは、われわれの日常と紛れもなく地続きに存在する噓である。 就活のエントリーシートの「あなたの人生を円グラフで表現してください」という質問を機に、自分とは何かに悩み始めた「僕」が、自らと全く異なる別人の人生を捏造することで筆が進み始める経験をし、結果的に小説家となる選択をするまでを描く「プロローグ」。東日本大震災の発生した2011年3月11日の記憶を友人たちと辿っていた「僕」がふと、その前日たる平凡な一日としての3月10日の記憶を辿るうち、過去の恋愛のなかに忘れていたあるひとつの噓の記憶を取り戻すまでの顛末を描く「三月十日」。友人の西垣から、妻が仕事を辞めて小説家になろうとしていると相談を受けた「僕」が、その妻を唆す青山のオーラリーディングの占い師の詐術を暴こうと画策するうちに、思わぬ展開へと帰着してゆく「小説家の鏡」。学生時代の同級生の片桐が現在、SNS上で「ギリギリ先生」と名乗り、80億円を運用するトレーダーとして活動しているらしいという噂を発端に、彼のネット上での炎上によりさまざまな噓が露呈するさまを辿る表題作「君が手にするはずだった黄金について」。ロレックス・デイトナの偽物を腕に巻いた漫画家・ババとの出会いから、彼の創作をめぐる噓に対し、本作中でほとんど唯一「僕」が感情的に怒りを剥き出している、書き下ろしの新作「偽物」。 就職活動や恋愛、占い師や詐欺師という仕事、あるいはSNS上での振る舞い。本書で小川が巧みに切り取るのは、そうした日々の延長線上に確かに存在する噓なのだ。そして冒頭に述べたとおり、それらを見つめ続ける「僕」たち、すなわち、小説家もまた噓をつくことをその本義とする存在であるだろう。本書の最後に収められている、『ゲームの王国』での山本周五郎賞(新潮文芸振興会主催)受賞を振り返るというかたちの短編「受賞エッセイ」で、小川は「小説家」という仕事の不思議をこう語っている。 仕事を依頼され、引き受ける。約束した期限までに作品を提出する。 自分がとんでもない詐欺をしているような気分だった。仕事を引き受けた時点で、何を書くかはまったく決まっていない。編集者から空き地を渡されて、僕は設計図もないまま「今月中に何か建てます」と約束する。そして実際に「何か」を建築する。そんな作業を繰り返してお金を稼ぐ。僕は編集者に対して、何を約束しているのだろうーーそんなことを考えたりもした。(『君が手にするはずだった黄金について』P234より) 「僕」曰く、小説家とは、空手形に終わる可能性のある契約を繰り返し、その都度どうにか作品を綱渡り的に成立させ続けるアクロバティックな職業である。ならばたとえば、希望の職を得るために自身をより良く誇張して書かれたエントリーシートと、誰かの好意を得ようと咄嗟に口から出た作り話と、相談者の安息を願って演出された占いと、小説家の仕事はいったい何が異なるというのか。ゆえに「僕」は、小説家である自らを「虚構を売り買いして生きるだけの偽物」と卑下し、詐欺師に共感しさえする。かくして本書のひとつの見所は、「僕」あるいは小川哲という小説家が、いまの世の中で噓を仕事にする、すなわち小説家であるとはどういうことか、という難問にいかに取り組むのか、という点にある。むろん、答えを出すのは容易ではないが、それでも自省的にみずからの噓を点検し、少しでも誠実であろうとすること。本書中のある短編で「僕」は、このように心境を吐露する。 僕は、結局短編小説をすべて書き直した。できあがったものは相変わらず噓ばかりだったし、改稿する前より面白くなっていたのかどうかもわからなかったが、少なくとも噓に対して誠実に向き合うことができたのではないかと思っている。(『君が手にするはずだった黄金について』P124より) たとえば、「理性」に基づく知的な文化社会の構築可能性を模索しようとした「近代」という時代であれば、フィクションはその補完物として多少なりとも有益性を持ったかもしれない。だが、ある者はなんの躊躇いもなく噓を世に放ち、ある者は噓を諸悪の根源として敵対視する、そんな現代で、噓を生業とする「小説家」は「誠実」たり得るか。ひとつの歴史的な職業としてその座を自明視するのではなく真摯に、噓をつくという行為と向き合い、嘘との共生可能性を模索する以外に小説家という仕事を、小説という営みを「誠実」に継続する方途はないだろう。むろん、そうした反省的な態度もまたパフォーマンス=噓である可能性は拭い切れない。が、それでも、嘘の功罪に目を向けようともしない者よりは、よほど信頼に足るように思われるのだが――そういう言い方をすると小説家に肩入れしすぎだろうか。「でも僕には、そうとしか思えなかった」のだ。まるで小説家の「僕」が、詐欺師となった旧友・片桐に、最後まで共感の心を捨て切れなかったのと同じように。 本書の最後に置かれた一文で、すなわち、断片的な自省を繰り返し、ひととおりの点検を終えたのち、あらためて「僕はラップトップに向かって文章を書きはじめる」。それは「「あなたの人生を円グラフで表現してください」という質問で、それまで順調だった僕の手が止まってしまった」という、ある種のライターズブロックの描写から始まった本作に相応しい感動的な結末であるだろう。ふたたび小説は書き始められる。「僕」が繰り返し夢見た「奇跡」のような瞬間にむかって。
竹永知弘