力道山の妻、結婚わずか半年で夫の死…語られてこなかった壮絶な“その後の人生”
敬子さんは、まごうことなき才女だった
執筆に費やせる時間は少なかった。小学館ノンフィクション大賞の締め切りは8月末。実質、4ヶ月半くらいの間で多くの関係者と会い、国会図書館で資料を漁り、もちろん敬子さん本人からも丹念に話を聞いていった。昔のことなので敬子さん自身が忘れていることも多かったが、立体的に取材をすることで力道山周辺の複雑な人間模様が徐々に浮かび上がっていく。 「敬子さんはふわふわした感じの方なんですけど、同時に非常に聡明な方だとも感じましたね。とても80歳を超えている方と話している感覚ではなかった。あとは弱者に対する優しい目線が印象的。彼女に対しては“経営の才がなかった”と語る関係者もいましたけど、あのまま日本プロレスやリキ・ボクシングジムを続けていたら成功していたような気もします。ボクシングって意外に会長の奥さんとかが仕切っていることが多いんです。(帝拳ジムの)長野ハルさんなんてもうすぐ100歳になりますから」 敬子さんは、まごうことなき才女だった。学生時代はスポーツ万能で健康優良児の神奈川県代表に選ばれ、横浜開港百年記念英語論文で特等賞を獲得し、卒業後は260倍という超難関を突破して日本航空の初代CAとなる。そんな良家の子女が力道山と結婚することになるのだから運命はわからない。 力道山は結婚と離婚を3回繰り返しており、子供も3人いた。民族の問題も横たわっている。さらには興行の世界に生きる者として、裏社会との密接な繋がりも囁かれていた。敬子さんの父は神奈川県警の警視だっただけに、反対の声も多かったことは想像に難くない。 「きっかけは力道山の猛アプローチでした。ロスで密会を繰り返す中で敬子さん自身も力道山に惹かれていくわけですけど、決定打になったのは大谷ユキエさんという親戚の一言。“結婚ってギャンブルと一緒よ”と敬子さんに囁いたらしいんですね。敬子さんはこのユキエさんに全幅の信頼を置いていて、進路のアドバイスも全部聞いていたくらいですから。力道山と一緒になることで自分の人生がどう転がっていくのか、ワクワクするような期待感もあったと語っていました」 当時のJALでは、結婚した女性社員は退職する決まりになっていた。もともと外交官を志していた敬子さんは、英語も堪能で、ゴリゴリのキャリア志向。散々苦労してCAになったのに、あっさり1年で辞めてしまうのは、さすがにもったいない気もするが──。 「1985年に男女雇用均等法が成立したんですけど、それ以前の女性は本当に気の毒だったと思うんですよね。今の若い人たちが知ったら信じられないはずです。ただ一般的に頭がいい女性って、人間的なスケール感が大きくて、夢を追い続ける人に惹かれる傾向があるんです。外交官として世界の空を飛びまわるのと、力道山の妻になるというのでは、意味合いはまったく違うけど、話のスケールとしては同じくらい大きいわけですから」 こうして“戦後復興のシンボル”力道山の妻となった敬子さんだが、その幸せはあまりにも短かった。わずか半年で、夫は鬼籍に入ったのである。 【後編】男社会と裏社会の荒波に揉まれた力道山未亡人の半生、借金30億円を抱え悪戦苦闘は下の関連記事からご覧ください。
小野田 衛