三笠宮百合子さま101歳で逝去 「美しい日本語を話す方」「華族として結婚」した最後の妃殿下
百合子さまの母方の祖父には、昭和天皇が東宮時代から東宮侍従長を務め、昭和に入ってからは皇太后大夫として貞明皇后に仕えた入江為守がいる。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は、その三男だ。 皇室との縁も深い家系ということもあり、貞明皇后から百合子さまを御所に連れてくるようにとたびたびお召しがあり、実現した場だったという。 百合子さまは17歳でまだ学生だったが、実質的には「お見合い」の場だった上映会。映画は、公開されたばかりで話題になっていた社会派ドラマ、清水宏監督の「みかへりの塔」だったという。 映画が終わったあとに「お蕎麦をいただいた」と百合子さまが思い出を語ったとき、工藤さんは「小腹がすいたということですね?」となにげなく相槌を打った。 すると、百合子さまは一瞬、驚かれたような表情をされたという。 工藤さんは苦笑しながら、こう振り返る。 「深窓の子爵のご令嬢で、学習院を卒業してすぐにご結婚された。わたしが使うような下世話な言葉は、あまり耳にされることもなかったのでしょう」 ■機銃掃射の中、「死なばもろとも」と百合子さま 百合子さまが学習院を卒業した41年10月、おふたりは結婚した。まもなく太平洋戦争に突入し、百合子さまの結婚と子育ての日々は戦時下で始まった。 皇居が空襲に見舞われたのは、三笠宮さまが留守をしていたときだった。 百合子さまは炎の中、1歳だった長女の近衛やす子さんを抱えて御用地内を逃げ回った。宮邸は全焼し、ご一家は3人で防空壕のなかで生活した。しかも、百合子さまのお腹には、すでに寛仁さまがいた。御用地内で戦闘機の機銃掃射に遭い、防空壕に駆け込んだこともあったという。 工藤さんのインタビューのなかで、百合子さまは当時の様子をこう振り返っている。 「裏道に生い茂る木の葉っぱに、ぱしっぱしっと弾が当たる音がして生きた心地はしなかったわ。もう、死なばもろともと覚悟を決めました」