200勝の記念球は入団交渉の「道具」に・東尾修さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(27)
プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第27回は東尾修さん。与えたデッドボールは通算165個で、2位に21個の差をつける断トツのプロ野球記録です。打者の懐を攻めるスタイルは、当時の最強打者の1人を封じる策の中から新しい武器も生み出しました。(共同通信=中西利夫) ▽内角へ徹底的に投げないとコーチから怒られた 西鉄に入団して1年目、真っすぐが全然通用しないと現実を見て分かってきました。スライダーという球種をプロに入って初めて自分が試そうとして、その近くにスライダーピッチャーの池永正明さんがいました。あの人の考え方とか性格が僕の与死球数の日本一につながっています。池永さんの気の強さを目の当たりにして、そういうふうにやらなきゃ勝てないと。池永さんはコントロールとか切れで勝負。身長だって僕より低い。そういう人がいたというのが刺激になりました。僕をかわいがってくれていましたが、その人が2年目にいなくなったんです。(八百長疑惑の)「黒い霧事件」で永久追放になりました(故池永氏の処分は2005年に解除)。チームの絶対的エースがいなくなり、そういう意味で、われわれにチャンスが来ました。数多く投げさせてもらって、1970年は11勝しましたが、18敗の方が勉強したというか、自分がどうしなければいけないかというのを負けて覚えたのです。
72年に河村英文さんが投手コーチで来た時、僕には1軍のピッチャーになる最低限の真っすぐとスライダーとカーブしかなく、そんなに球を操ることもできませんでした。河村さんは気が強く、インサイドへ徹底的に放らせ、投げないと怒られました。河村さんは(現役時代に)シュートが得意でしたから。僕と加藤初さんの2人はインサイドに投げないと勝てないと、やかましく言われました。72年は18勝25敗でした。25敗は勲章ではないです。18勝しましたがチーム力も弱く、数多く投げているからです。登板数は55試合。先発は41試合もありました。今では考えられないような数です。300イニング以上投げて、体が壊れなかったというのが一番でした。 ▽1死三塁で空振り三振が取れないなら 僕は2、3年目で自分の生きる道は速球派ではないと分かりました。なぜかと言うと、いい打者は自分の真っすぐを空振りしてくれないのです。そういういろんな経験があるから、一つ一つの球種を磨くしかありません。右打者のインコースにスライダーを投げ始めたのはアイデアと言えます。コントロールとか技術が身に付いてきたからこそ、右打者へのインスラ、左打者への外角スライダーを投げ始めました。