「沖縄戦の生き残りは皆、艦砲射撃の喰い残し」 強烈な民謡を生んだ作曲家の壮絶な人生【慰霊の日企画 #あなたの623】
▽でいご娘 島袋艶子さん 「砂の上を歩くの、すごい(久しぶり)」「ここ結構遠浅、貝もとれるし」 恒敏さんは、読谷村楚辺の浜辺によく子どもたちを連れてきては、釣りをしながら、歌詞を考えていたという。 ▽でいご娘 島袋艶子さん 「話しかけてもほら、一生懸命歌詞考えてるので、あとはこっちの方が退屈しちゃうのね。いつの間にか寝てしまってっていう感じですね」 戦争で家族を失った恒敏さんが、やっと掴んだ穏やかな暮らし。しかし、それは無残にも打ち砕かれた。 本土復帰翌年の1973年10月。結婚式のステージを終えて読谷に戻る道中、飲酒運転の米兵の大型乗用車が、恒敏さんの乗るワゴン車に衝突。 母シゲは即死。父恒敏は、その4日後に亡くなった。十分な事故の補償もないなかで、加害者の妻に言われた言葉を、艶子さんは忘れることができない。 ▽でいご娘 島袋艶子さん 「この人(加害者の妻)が来て私に言うんですよ、「この指輪をあげるから許すって言って」と。その言葉で絶対忘れないんです私。うん。そんなことさ、そんなこと「はいOKです」って言いませんよね、そういう簡単な言葉でしたよ」 「父はどんなに悔しかっただろうねと思う。またしても、家族を失ったっていうね、幸せな状況のなかで結婚式も行って、帰りはああいう形になって、父が一番悔しかったと思うね」 父の「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を残したいと活動を続けている「でいご娘」を応援するように、故郷の読谷村楚辺には、地域の人たちによって歌碑がつくられ、平和を願うシンボルになっている。 ▽歌碑建立に関わった池原栄順さん 「この歌詞をみんなで共有する。そしてこれから新しい平和を作っていくという。ひとつのメッセージでもあるんじゃないかなと僕は感じますね」 ▽でいご娘 島袋艶子さん 「父親はやっぱり、自分が考えていた通りなんか、ちょっと心配だなっていう気分じゃないですかね。今の世界の状況って、戦争になるんじゃないかねとか、あえて言っちゃうと本当になりそうでね」 「最後の歌詞に、こういった戦争を絶対にしないように、遺言として子どもたち残すよっていう言い方をね、残してくれたので、父の艦砲の喰ぇー残さーを通して、(私は)語って伝えていく」 恒敏さんが軽快なメロディーに乗せて娘たちに託した「艦砲ぬ喰ぇー残さー」。「艦砲に喰い残された者」たちの苦しみと平和への誓いを伝えています。 今年の6月23日、慰霊の日には、読谷村楚辺の「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑の前で、艶子さんたち「でいご娘」が出演するコンサートが午後6時から開催され、歌を通して平和への願いを共有することになっている。(取材:比嘉チハル RBC NEWS Link 2024年6月21日放送回) ーーー RBCでは6月23日(日)の午後2時から、#あなたの623~生放送で送る慰霊の日~と題した特別番組を放送します。(ハッシュタグ)#あなたの623 をつけた投稿で、あなたが慰霊の日に心に浮かぶもの、思い出す人や出来事を教えてください。
琉球放送