「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#41
面会室で会ったのは「おじさん」
(次男 健二さん)「これがおふくろで、だとするとこれが私じゃないかと思うんだけど。巣鴨の面会室に行くとおやじが座っていて、おふくろから『あれ誰か』って聞かれたから、『おじさん』って私、答えた記憶がありますから。『お父さんだよ』って言われても、ぴんとこないっていうか」 健二さんが自分ではないかと指差したのは、5歳くらいの少年だった。生まれてから一度も会ったことのない父を誰かと問われ、「おじさん」と答えるのは無理もない。ただ健二さんは、法廷写真に写る若いころの父の顔はすぐに分かったという。まさに「おやじの顔」だったそうだ。 〈写真:記念写真に写る健二さん〉
祖父の名前で検索 ヒットしたのは
取材にお邪魔したときに、浩さんはすでに父の軍歴を取り寄せていた。当時、大学生だった浩さんの娘さんがウェブ検索している時に、祖父の名前がいくつも出てきた。大学の先生にアドバイスをもらって、祖父の名前が載っている森口豁さんの「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(1993年講談社)を取り寄せて読んだという。石垣島事件の概要については、この本で初めて知り、最終的に7人が絞首刑になったことも分かった。しかし、父がどのように事件に関与をしたのかについては書かれていない。そうした状況の中、私から写真が届いたのだという。健二さんと浩さんに、持参した裁判関係の資料を見ていただくことにした。その資料には、父が石垣島事件で何をしたのかが書かれている。初めてそれを知ったとき、遺族は何を思うのだろうか。緊張しながら、テーブルに資料を並べたー。 〈写真:石垣島事件の法廷写真 左から四番目が炭床静男(米国立公文書館)〉 (エピソード42に続く) *本エピソードは第41話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。