「高齢者は集団自決を」発言と映画『PLAN75』の不気味な符合 安楽死に対する“世の中の空気”に漂う危うさ
「安楽死」とは『三省堂国語辞典(第七版)』によれば、〈はげしいいたみに苦しみ、しかも助かる見こみのない病人を、本人の希望を入れて楽に死なせること〉とある。しかし近年では、「障害者を安楽死させるべきだ」と声高に叫ぶ殺人犯が現れ、著名脚本家が「社会の役に立てなくなったら安楽死で死にたい」と主張するなど、本来の言葉の意味と異なる使い方がなされているケースも多い。 その背景には、海外で安楽死が次々と合法化された国際的な流れや、日本国内の社会情勢の変化なども少なからず影響しているのかもしれない。一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事の児玉真美さんは、日本では安楽死の合法化について話す以前に、「まだまだ知るべきことが沢山あると気づいて」ほしいと話す。 この記事では、安楽死をめぐる国内外の動きや、揺れる言葉の定義について紹介する。連載第2回は、高齢者の安楽死が制度化された世界を描く映画『PLAN75』と現実社会の不気味な符合を概括する(全5回)。 ※ この記事は児玉真美さんの書籍『安楽死が合法の国で起こっていること』(筑摩書房)より一部抜粋・構成しています。
映画『PLAN75』と現実社会の“不気味”な符合
おりしも、京都ALS嘱託殺人事件の判決の前後に世間を騒がせていたのは、経済学者の成田悠輔による「高齢者は集団自決を」「安楽死の義務化も」などの発言だった。 成田の発言は、22年に公開された映画『PLAN75』(主演:倍賞千恵子、脚本・監督:早川千絵、配給:ハピネットファントム・スタジオ、日本・フランス・フィリピン、カタール合作)とも不気味な符合を見せている。 75歳以上の高齢者を対象に安楽死が制度化された日本の近未来。それとなく制度利用を促す仕掛けに満ちた社会で、貧困や社会的孤立から生きづらさを感じる高齢者たちが安楽死へと誘導されていく――。 この映画と成田の言葉との符合はただの偶然ではなく、世の中の空気を示唆していると思えてならない。 こうした出来事を眺めながら、ここ数年じわじわと社会の空気が変わってきたことを肌身に感じている。経済状況の悪化と格差の拡大、そこにコロナ禍による社会の閉塞感が重なる中、余裕をなくした社会の人々は社会的弱者への風当たりを強めていく。そんな中で「安楽死」という言葉が使われる文脈もあきらかに変わってきた。 10年前、「安楽死」は、もう救命不能となった終末期の人が耐えがたい痛みに苦しんでいる場合の最後の救済策とイメージされていたが、上記の「安楽死」は、ことごとくそこからかけはなれている。 相模原事件の植松聖の行為は残虐な殺人だし、脚本家・橋田壽賀子が書いた「私は安楽死で逝きたい」という言葉は、命にかかわる病気があるわけではないが生きがいを見いだせない高齢者の自殺願望だった。 新書の帯の「人に迷惑をかける前に」という言葉に、健康な多くの人たちが共感を寄せたが、「NHKスペシャル」が取り上げた難病女性や京都の事件で死を望んだALSの女性患者のように介護や支援サービスを使って生活する人たちに、それがどのようなメッセージとして届くかに想像力を働かせる人は少なかった。まして橋田も2人の女性も、死が差し迫った終末期の人ではなかった。 さらに京都の事件の被告である大久保や、成田の発言が示唆するのは、「社会の負担になる人には安楽死で消えてもらおう」という考え。それを「自己決定の尊重」の装いで覆い隠して制度化したのが『PLAN75』の世界だ。