一体なぜ…『ジョーカー2』批評&興行面で大苦戦の原因
Rotten Tomatoesの観客レビュー欄には、「歌が多すぎ。アクションが少なすぎ」「これはいったい何なんだ? ジョーカーはいつから歌手、ダンサーになったのか?」などという感想が見られる。「これをミュージカルでやるのは間違っている」「ジョーカーとDCのファンが何を求めているのかまるで考慮していない」などという書き込みにも、望んでいたものを得られなかった欲求不満が見て取れる。
批評家や映画ジャーナリストはもちろん、これが歌とダンスのある映画になることを知っていた。それは興味深い選択だと、純粋な好奇心を持ち、楽しみにしていたと思う。しかし、実際に完成したものを観ると「ばらばらでまとまりがない」「ドラマの部分と歌の部分の移行がぎこちない」「誰のために作ったのか」とトーンに問題を感じる人が多かった。ミュージカルで歌は話を先に進めるか、キャラクターが思っていることを表現するためにあるものなのに、それがほとんどなされていないことや、歌唱力への指摘もある。
前述したように、フィリップス監督には、これを正統なミュージカルにするつもりはそもそもなかった。主演のホアキン・フェニックスも、ジョーカーだったらどう歌うのかということを考えた上で歌ったと語っている。だから、“ミュージカル映画”としての基準で判断され、欠点を挙げられるのは、フィリップス監督やフェニックスにしてみたら的外れだろう。だが、自分たちの意図が正しく受け止められなかったことについて、観た人を責めるわけにはいかない。 ストーリー自体への不満も聞かれる。歌がストーリーを進める役目を担っていないため、歌が入るとそこで話がストップしてしまい、「話が薄い」あるいは「表面的」で、2時間18分をかけて語られることは「すべて1作目ですでにわかっていたこと」「1作目の長いエピローグのようなもの」と多くの批評家は感じた。
ただし、映画を弁護する批評家もいる。フィリップス監督がやろうとしたのは1作目を観た人の予想を裏切ることだったのだから、その意味で彼は目的を達成したというのだ。たしかにそうかもしれない。また、結果がどうだったにしろ、フィリップス監督が大胆なことをやり、スタジオが彼のアーティストとしてのビジョンを支えてあげたことには大きな価値がある。前回以上とも思えるほど痩せて挑んだフェニックス、カリスマを放つレディー・ガガ(リー役)が全力を尽くしたのも明白だ。