【選ばれた神の子】KinKi Kidsの2人がアイドルであり続けた必然と「過激な出世作」
「あまりに出来過ぎた」ストーリー
KinKi Kidsは不思議なグループだ。 同じ1979年に関西で生まれた。堂本剛と堂本光一、2人に血のつながりはないという。 【写真】どこを見据えるのか…残された堂本光一、憂い気な横顔 こういうことって、あるんだろうか? 「堂本」という苗字は珍しい。 しかも、共に12歳の頃、両者の姉が勝手にジャニーズ事務所に履歴書を送った。’91年5月、光GENJIのコンサートに招待されて2人は出会う。同時に事務所入りを決めた。 いや~、すごい。あまりにも出来過ぎている。ホントか? これは作られたストーリーではないか? と私は疑っていた。 アイドル(idol)の語源は「偶像」である。教会のキリスト像のようなもの。宗教的な世界とつながっている。 その意味で、堂本剛と堂本光一の不思議な出会い、その神秘性を考えると、KinKi Kidsこそが言葉の真の意味でのアイドル(=偶像)ではないか、と強く思うのである。 おそらく彼もそう考えていたはずだ。彼とは? そう、ジャニー喜多川である。 ジャニーズ事務所のアイドルは、たった一人の男の意志と決断によって選ばれる。そこではジャニー喜多川は、「神」なのだ。 たとえばSMAPのメンバーを考えてみよう。年齢も個性もバラバラ。彼らがグループを組む必然性は、まったくない。単にジャニーの好み、その意志によって選ばれたに過ぎない。 それはTOKIOもV6も嵐も、同じだ。 ところが、KinKi Kidsだけは違う。同い歳で同じ関西から同じ頃、両者の姉によって履歴書が送られた。同じ「堂本」の苗字を持つ2人の少年たち――。 ◆『人間・失格』の衝撃 あまりの偶然に、驚いたことだろう。つまりジャニー喜多川の意志ではなく、2人には出会うべき必然があったのだ。 ジャニー喜多川は「神」の立場を放棄して、その不思議な偶然……いわば<宿命>の力に賭けたのではないか? 私が最初に2人を目に止めたのは、デレビドラマだった。『人間・失格~たとえばぼくが死んだら』。1994年夏に放送された。 名門私立中学校を舞台に、イジメ・体罰・虐待・裏切り等、異様な世界が描かれる。主演の赤井英和の一人息子役が、堂本剛だった。 イマ風のイケメンではない。どこか古風な昭和のサムライ感がある(若き日の勝新太郎や萬屋錦之介を連想した)。 その親友役が、堂本光一である。こちらはさわやかな、いかにもイマ風の美少年だった。 ドラマの中盤で、壮絶なイジメを受けた堂本剛が自殺してしまう。この展開には驚いた。 後半は父親の赤井英和による復讐譚に転じるのだが、そこでは不在の堂本剛こそがこのドラマの真の主役となってゆくように見えた。 終盤に至って、堂本光一のもう一つの顔があらわになる。社会科教師の加勢大周は光一を寵愛していた。光一の剛に対する愛を知った加勢は、嫉妬に狂い、謀略をめぐらす。 2人の仲を引き裂き、剛を死へと追いやった真の黒帯とは、実は、<同性愛者>の加勢大周だったのだ。 この展開には、仰天した。おそらく同ドラマは、二度と再放送されないだろう。なぜか? 剛と光一を追い込む、同性愛者の教師が……あまりにもジャニー喜多川を連想させるからである。 脚本は、前年に『高校教師』を大ヒットさせた野島伸司だった。野島は、暗黙の内にジャニーのキャラクターを加勢大周に投影させたのではないか? それにしても、こんなドラマに剛と光一を出演させたジャニーズ事務所は、すごい! と言うしかない。 ドラマのラストで、加勢大周は何者かによって殺される。殺人犯の正体は、わからない。 しかし、30年後にジャニーズ事務所が息の根を絶たれたことを思えば、あまりにも予言的だ。愛する少年たちを虐待した同性愛者<加勢大周≒ジャニー喜多川>は、やがて抹殺される宿命にあるのだから。 ドラマのタイトルになぞらえよう。 ◆「神話の世界」でも違和感なし ~たとえば“ジャニー”が死んだら……後に東山紀之に「人類史上、もっとも愚かな行為」「鬼畜の所業」と断罪された。 そう、ジャニー喜多川その人こそが、「人間・失格」だったのではないか? 同じ年に関西で生まれた、同じ苗字を持つ2人だが、風貌もキャラクターもまったく違う。剛はどこか古風できわめて個性的だが、光一は誰にでも好かれる大衆性を持っている。 こうした組み合わせは、さまざまな先例を想起させる。 たとえば剛がジョン・レノンなら、光一はポール・マッカートニーだ。前者はトンガったアーティストであって、後者は愛すべきエンターテイナーなのである。 村上龍の小説『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)を思い出す。コインロッカーに捨てられた2人の赤ん坊が、やがて成長して、世界破壊へと向かう。破滅的で危ういシンガーのハシと、行動的なスポーツマンのキク。ハシが剛であり、キクが光一だ。 さらには大友克洋のマンガ『AKIRA』の世界にも通じる。主人公の2人の少年たち、破滅的な超能力者の鉄雄が、剛であり、行動的な不良少年の金田が、光一なのだ。 いつかKinKi Kidsの2人によって演劇化された『コインロッカー・ベイビーズ』や『AKIRA』のステージを見てみたい。 しかし、これらは現代的な小説やマンガの世界のみのものではない。旧約聖書のカインとアベル(映画『エデンの東』)や、『記紀』に端を発する昔ばなしの海彦山彦(怪獣映画『サンタ対ガイラ』)等、さながら神話の世界の引き裂かれた双子の兄弟たちなのである。 KinKi Kidsがすごいのは、彼らが物語でもフィクションでもないということだ。今、生きて活動する、現在進行形のアイドル――生身の存在なのだ。それでいて、2人は、まるで神話の世界を生きているように見える。 アイドルとは「偶像」だ、と書いた。イエス・キリストは人間として生まれながら、「神の子」と呼ばれ、神話を生きた。 アイドルもまた人間でありながら、「偶像」としてフィクションを生きるように要請される。 戦後日本最大の芸能プロダクション・ジャニーズ事務所は、ジャニー喜多川という一人の男の<欲望>を具現化するための楽園であり、かつ地獄であった。 しかし、その<欲望>の神話が滅び去ろうとするこの時、最後に残ったのが、宿命的なアイドル神話を生きる2人組であったことの意味は大きい。 ――KinKi Kidsは、いったいどこへ行くのか? 取材・文:中森明夫
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