“発明”にとりつかれた男、クリストファー・ノーランが『オッペンハイマー』に至るまで
「発明家」への共感とリスペクト
映画を通して「発明」を実現しようとするノーランが、物語においても「発明」を描こうとするのは至極当然のことだ。『プレステージ』(2006年)は、ライバルとして競い合う22人の奇術師が、人知れず世紀の発明を手に入れてしまうという奇抜なSFドラマである。劇中には実在の天才発明家ニコラ・テスラも登場し、ノーランらしい求道者=発明家への共感とリスペクトに満ちている。 主人公たち自身は発明の生みの親ではないが、その使用法はまさに画期的であり、狂気すら感じさせるものである。まるでノーラン自身が「映画はいまだそのポテンシャルを十分に活かしきっていない、未完の発明である」と断じ、さまざまな語り口やフォーマットを試し続ける姿にも重なるようだ。 同時に、『プレステージ』にはノーラン作品における別の重要なテーマも芽生えている。それは発明自体の「人類の手に余る巨大さ」である。主人公たちはその力をコントロールしているとは言いがたく、ある者は悲劇的結末を迎え、複雑怪奇な真実は歴史の闇に葬り去られる。ノーラン自身も彼らのように、その後の作品では自らの制御能力を超えたスケールや題材に進んで立ち向かうかのような、デスペレートな映画作りに邁進していく。 『インセプション』(2010年)では「夢への潜入技術」という驚異的発明を用いた、文字通り超現実的なスパイアクションが展開する。だが、劇中でその技術を完璧にコントロールできる者は誰もいない。『インターステラー』(2014年)では、滅亡寸前の地球から再び宇宙に飛び出そうとする人々の姿を描くが、その道行きはひたすら苛酷だ。ノーランは人類の叡智と冒険心に最大限のリスペクトを捧げながら、予測不可能な事態に打ちのめされ続ける人間存在のちっぽけさも容赦なく映し出す。また、物語の背景には環境保護というコントロールを失った人類が自ら招いた破局、その原罪も常に存在している。『ダンケルク』(2012年)で描かれるのは、第二次世界大戦において約40万人の連合軍兵士を救出した「ダイナモ作戦」の史実だ。戦争という制御不能な状況、絶体絶命の危機のなかで敢行された壮大な救出作戦は、ある意味“画期的発明”のようでもあり、無謀でもある。ノーランはここでも得意の「時間と場所の解体・再構築」により、戦争映画という王道ジャンルも新たに語り直してみせる。 いつしかノーラン作品において「発明」と「制御不能な巨大さ」は、題材か語り口のいずれか(もしくは両方)に含まれるトレードマーク的要素となった。その究極形といえるのが『TENET テネット』(2020年)である。世界の存亡をかけ、時間を逆行しながら戦うエージェントたちのサスペンス・アクションは、作劇を含む映画全体の形式そのものも、斬新すぎて多くの観客の理解が追いつかなかった点においても「発明的」であった。 いよいよ題材と表現方法の「発明性」は渾然一体となり、『オッペンハイマー』に結実していく。