創設後1万試合に達した千葉ロッテ…苦難の時代を乗り越えた監督・金田正一の奮闘
カネヤン人気でロッテが大盛り上がり
さる4月23日、本拠地での福岡ソフトバンクホークス戦で、球団創設から1万試合に到達した千葉ロッテマリーンズ。球団の源流は、1950年、プロ野球の2リーグ分立により誕生した毎日オリオンズ。その後、毎日大映オリオンズ、東京オリオンズ、ロッテオリオンズと名を変え、1992年からは現在の千葉ロッテマリーンズを名乗っている。 【写真】PL学園・野球部の「ヤバすぎる3年間」で僕が学んだこと 球団が最も苦難を強いられたのは、本拠地を持たなかった1973年から77年までの5シーズンだ。仙台の宮城県営球場を準フランチャイズに定めたものの、東京の後楽園球場、神宮球場、京都の西京極球場、静岡の草薙球場などでも公式戦を行い、“ジプシーオリオンズ”と揶揄された。 しかし、お客さんはよく入った。最大の理由は400勝投手のカネヤンこと金田正一が73年に監督に就任したことだ。73年のパ・リーグの入場者数は1位=ロッテオリオンズ94万6500人、2位=太平洋クラブライオンズ87万6700人、3位=日拓ホームフライヤーズ73万8100人、4位=南海ホークス65万7700人、5位=阪急ブレーブス44万3500人、6位=近鉄バファローズ39万7700人。フランチャイズを持たない球団が、パ・リーグ新記録となる入場者数を記録したのだから、他球団は面目丸潰れだったに違いない。 生前、本人に“カネヤンブーム”について聞いたことがある。 「パ・リーグはね、(1969年から71年にかけての)“黒い霧事件”で壊滅的な打撃を受けていた。そんなパ・リーグにも明るい話題が欲しいということで、私がロッテの監督を引き受けることになったんだ。 私はね、1969年に引退して、とにかくテレビに出まくったんだ。レギュラー番組も数えきれないほど持っていたよ。それはね、カネダの知名度を落とさないため。 長嶋茂雄や王貞治と比べてみなさい。長嶋も王も、読売という大きな組織の庇護の下にあり、(監督への)レールも敷かれていた。ところがカネダはね、いくら400勝したといっても、引退したら、何も残されていないんだよ。頼りになるのは、自分の人気だけ。だからお声がかかると、どこへでも出かけて行ったんだよ」 カネヤン人気は想像を超えていた。ロッテでは三塁コーチスボックスに立ち、“カネヤンダンス”という派手なパフォーマンスを披露した。全ては世間の耳目を集めるためだった。これがパ・リーグ新記録となる入場者数に結びついたのである。 そして翌74年、金田ロッテは後期優勝を果たし、プレーオフでは前期優勝の阪急を3タテにし、1970年以来、4年ぶりに日本シリーズに進出する。