「夫はバラバラに飛び散ってしまったのですか」戦死の報を受け、最愛の人の弟と再婚した妻の気丈 #戦争の記憶
「この世の地獄」と形容された沖縄戦で、米軍の迫撃砲弾を浴びて亡くなった倉田貫一さん(=中尉、享年38)には、故郷に残してきた妻と子どもがいた。 【写真を見る】激戦地沖縄で亡くなった倉田貫一さんの長男・紀(おさむ)さん 「死に水ぐらいはのめましたか」 「恐ろしければ恐ろしく、悲惨なら悲惨、哀れなら哀れなりに、詳細にお知らせいただきとうございます」 終戦後、妻・琴さんは、貫一さんの元上官にあたる伊東孝一大隊長へ宛てた手紙の中で、夫が戦死した時の様子について事細かに尋ねている。 ※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、全3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第2回です/最初から読む】
終戦直後、母が書いた「手紙」の存在を知った長男は……
手紙は、倉田貫一中尉と琴さん(享年64)の長男・紀(おさむ)さん(76歳)へ返還した。 地元の遺族会の会長を務めたこともある紀さんは、ご当地で開催する平和学習などに熱心に取り組んでおり、沖縄で戦没した父のことならばなんでもいいから知りたい、と電話口でも熱く語ってくれた。 お届けしたいのは伊東大隊長から預かった手紙であり、それは倉田中尉の妻・琴さんが書いたものであると伝えると、あきらかに声のトーンが落ちた。本人を訪ねて事情を聞くと、その理由が納得できた。
琴さんは、終戦後に南方から復員した、貫一さんの弟と再婚していたのだ。父を尊敬し、誇りに思っていた紀さんは、そんな母を心の奥底で軽蔑し、不信感を募らせていたと声を震わせる。 沖縄で名誉の戦死を遂げた父のことを忘れ去ったかのような、母の冷たい振る舞い。とくに、遺骨が入っているとされた白木の箱が帰ってきた時、泣き崩れる祖母を前に、母は冷静な態度でまったく取り乱していないかのように見えた。わだかまりが澱のように心に溜まっていったという。 伊東大隊長に宛て、琴さんがしたためた手紙の一部を紹介しよう。