吉川晃司「シワには歴史が刻まれている」 受け入れる見た目の変化「『どう生きるか』の方が大事」
デビュー当時に学んだ“恥をかく”重要性
肉体は維持している一方で、外見の経年変化は取り繕わない主義だという。 「顔には人の『生きざま』が出ると思うし、シワには『歴史』が刻まれているから、『隠す必要はない』と思っています。見た目を取り繕うことよりも『どう生きるか』の方が大事じゃないか。『いつまでも若く見える』と言われるよりは『かっこいいおじいちゃん』とか『かわいいおばあちゃん』と言われる方が、素敵じゃないですか」 振り返ると、デビュー時から「思い通り」ではなかったが、「挑戦する」ことの大切さを感じてきた。 「僕は歌手をやりたかったのに、渡辺プロダクションの社長だった渡邊晋さんから『歌より芝居をやれ』と。『経験ないですよ』と言っても、『教わればいい』って(笑)。それで映画とレコードの両方でデビューしましたが、20代から30代半ばまで10年以上は役者をやっていなかった。三池崇史監督から声をかけられなかったら、ずっとやっていなかったかもしれないですが、『何事も経験していくことがプラスになる』と気づきました。ナレーションの仕事をいただいて、勉強すると歌手として役立つ部分があったり。初めてのことをやると大概は『恥をかく』けど、それが大事なんです。そこでの失敗が必ずプラスになるので。だから恥をかくことを恐れない自分でありたいです。この年でハードルの高いオファーをいただくこともありがたい。『キングダム』のホウ煖もそうですよ(笑)。器用貧乏にならないように気をつけつつ、これからもチャレンジしたいです」 そんな思いの吉川に「現在の20代にメッセージを送るとしたら」と伝えると、やはりポジティブな言葉が返ってきた。 「僕が広島から上京した40年前と比べると、いろんな意味で窮屈な世の中ですが、挑戦することは忘れないでほしいです。経験を積むことで、『負け』が『勝ち』に変わっていくんです。『失敗をたくさんした人の方が強く、大きくなれる』。僕はそう思っています」 そして、広島市内の中学、高校に通い、水球選手として将来を嘱望されていた中で、上京した当時を振り返った。 「なぜ、あんなことがやれたんだろう(笑)。自信だけはあったんですね。何の心配もしていなかった。根拠があったとしたら水球くらいですよ。若かったわりに結果を出せていたから、『これがやれるのなら、他のことだってやれるはずだ』と思っていたんでしょうね。だから、あんな冒険ができたのかなと」 当時からの「根底にある考え方」は、この先も変わらないという。 「『朱に交われば赤くなる』と言いますが、『染められてなるものか』『世間の波に流されることだけは絶対に嫌だ』と思っています。世の中をうまく渡っていくことが、向いていないんです(笑)。『清濁併せ呑む』ことができないし、『石橋をたたいて渡る』くらいなら、『川を泳いで渡ってやるよ』です。良く言えば『ブレない』ですが、根性が器用じゃない(笑)。自分で『融通の利かない奴だな』と思うことはあります。ただ、『良い歳のとり方をしている』みたいに言っていただけることが多いというのは、僕が思う『かっこよさ』を追求してきたことが、みなさんに伝わったのかなと。ロックミュージシャンとして、見得を切り続けてきたので、それは貫き通すつもりです」 ツアーが始まる時の思いにも変化はない。何よりも、観客のことを考えている。 「素晴らしいミュージシャンがそろっているし、『トラブルなく、全ての公演を実施できるように』という気持ちですね。ただ、今回は直前までやっていた仕事のために、ミュージシャンとしての理想の体よりも、大きい状態でスタートせざるを得ないんです。それがちょっと不安ですが、やるべきことはやってきたので、その成果を出すだけです。意気込みとしては、みなさんに楽しんでいただくこと。地球も世界も日本も、おかしくなっているでしょう。地震、異常気象、戦争。誰もがストレスを抱えている時代なので、束の間でも嫌なことを忘れてもらえるような時間を提供したいと思っています」 □吉川晃司(きっかわ・こうじ) 1965年8月18日、広島県生まれ。84年に映画『すかんぴんウォーク』と、その主題歌『モニカ』でデビュー。88年には布袋寅泰とロックユニット・COMPLEXを結成し、89年にシングル『BE MY BABY』をリリース。俳優としての出演作は、映画『レディジョーカー』『チームバチスタの栄光』『るろうに剣心』『必死剣・鳥刺し』、NHK大河ドラマ『天地人』『八重の桜』など多数。
大野代樹