災害訴訟での過度な責任追及はマイナス面も
大地震や風水害が発生すると、行政や企業など管理者の責任を問う訴訟がたびたび起きる。こうした訴訟の判決時、新聞社から専門家としての意見を求められると、時に管理者寄りとも取れるコメントを出す研究者がいる。災害情報学を専門とする静岡大教授の牛山素行さんだ。
「大切な人を亡くした遺族に対するいたたまれない気持ち。また、『もう少し何とかなったのではないか』という思い。それらは私にもあります。それでも、管理者側の責任を、あまりに強く問い過ぎていると感じた判決内容については、意識的に、強めに疑問の声を上げてきました」 例えば、東日本大震災の津波で児童・教職員計84人が犠牲となった宮城県石巻市立大川小学校を巡る損害賠償訴訟。1審判決(2016年10月26日)は地震発生後の教職員の判断ミスを、控訴審判決(18年4月26日)は市や学校の震災前の対応の不備を、それぞれ過失と認定した。 これらの判決に対し、牛山さんは自身の研究記録用ブログに「『的確なとっさの判断』を行わなかったことが不適当であるとされるのは、管理者(ここでは教員)にとってかなり厳しいことだと思う」(1審判決後)「判決が求めている判断は、現代においてもかなり高度なものであり、今後社会全体として対応していくことが現実的に可能なのか、強い疑問を感じた」(控訴審判決後)と記した。 異なる意見を持つ人々から批判を浴びることが少なくないため、発言をためらう気持ちもあるという。それでも、あえて、言い続けてきたのはなぜか。牛山さんは話す。 「自然災害はいつ、どこで、どのようなことが起きるのかを予測することは困難です。また、大きな災害ほど発生頻度が低いため、個人・組織としては初めて遭遇するケースがほとんどでしょう。そのようなものに対し、事前の対応を含め、うまく対応できるほど、災害科学の知見や教育・社会システムの水準は進歩していないと思います。そもそも『火災に対応する消防署・消防士』に該当するような、防災に対応する専門機関・専門家が全国各地に展開されているわけではなく、行政でも民間でも、素人が片手間で防災対応に当たっていることがほとんどというのが現実です。このような状況下で、何が起こったか明らかになった後に、その知見を踏まえて責任を追及することは、教訓を埋もれさせ、過大で実現性に乏しい防災計画につながるのでは、と心配しています」
それでは、もし本当に自然災害に関連して裁かれる必要があるとしたらどんなケースだろうか。 「意図的に災害への対応を妨げたような場合でしょう。災害の不確実性を考えれば、少なくとも災害時の判断が適切でなかったことの責任は問えないのではないでしょうか。防災実務に当たるすべての人や組織が確実に対応できる水準を、大きく超えるようなことを『できたはずだ』と責任追及することは適切ではないと思います」 飯田和樹・ライター/ジャーナリスト(自然災害・防災)