「くやしいか」と問いながら……「虎に翼」で話題「尊属殺人罪」5人の子を産まされた娘はなぜ実父の首を締め続けたのか
「この売女」
そして事件の夜。 「俺はもう仕事をする張り合いがなくなった。俺を離れてどこにでも行けるんなら行ってみろ。行け、一生つきまとって不幸にしてやる。どこまで行ってもつかまえてやる」 繰り返しそう言いながら、酒を飲んだ。その後一度布団に入ったものの、再び起きてきた父親は焼酎をコップで数杯飲み、A子の布団にやってきて罵り始めた。 「俺は赤ん坊のとき親に捨てられ十七歳のとき東京に出されて苦労したんだ。そんな苦労をしてお前を育てたのに、十何年も俺をもてあそんできて、この売女」 「売女。出て行くんだったら出てけ。どこまでも追って行くからな。俺は頭にきてるんだ。三人の子供は始末してやっから」 A子はこのとき思った。“いつまでもこんな毎日をくり返していては一生幸せなどえられないんだ。Bさんとの幸せもこわされ、畜生のような生活をするんだら死んだほうがいい、自分はもうどうなってもかまわない。いっそ父を殺してしまおう”……部屋にあった、ももひきの紐を手に取り、父親の首の後ろから紐を回した。絞めながらA子は言った。 「くやしいか」 父親は喉の詰まったようなこえで答える。 「くやしかねえ、お前がくやしいからしたんだべ。お前に殺されるのは本望だ」 A子は「くやしかない、くやしかない」と言いながら、紐を絞め続けたのだった。
平穏な生活
最高裁までの判断も揺れた。1970年5月、一審・宇都宮地裁は「尊属殺人の重罰規定は違憲」として殺人罪を適用のうえ、A子が当時心神耗弱にあったことと、過剰防衛を認め、刑を免除した。検察官控訴による二審・東京高裁は(規定を)「違憲ではない」とし、A子が心神耗弱の状態にあったことを認め、また情状酌量の上で、一審を破棄し懲役3年6月を言い渡す。弁護側が上告し、最高裁は1973年、一審通りに「尊属殺人の重罰規定は違憲」としてA子は懲役2年6月に減刑のうえ、3年の執行猶予が付された。 最高裁判決を受け、A子の担当弁護人だった大貫正一氏は『週刊ポスト』(1973年4月20日号)に語っている。 「現在、一年間に六十数件の尊属殺や尊属傷害致死があるんですよ。それらの事件は、いずれもやむにやまれない事情から子が親を傷つけたり、殺したりしているものばかりです。けっして、その行為がいいというのではありませんが、普通殺なら執行猶予になるようなものでも尊属だからといって実刑に処せられてしまっていました。 親子関係は道徳ですよ。その道徳を法律が強制し、子が親を殺したら重く罰するとあらかじめ決めておく、というのはだれが考えてもおかしな話ですよ。親孝行は法律でするものではないでしょう」 逮捕後、「お母ちゃんがかわいそうだ」と言っていた3人の子は施設に預けられたのち、それぞれ自立した。A子は旅館の手伝いや工員として働き、その後、ある男性と家庭を持ち平穏な生活を送った。尊属殺規定は1995年の法改正で削除された。 前編では、実娘に5人の子を産ませた父親のおぞまし過ぎる行状について詳述している。 ※執筆に当たり、週刊サンケイ(1971.10.4、1973.4.27)のほか、週刊読売(1972.6.10)、週刊ポスト(1973.4.20、1973.6.22)、サンデー毎日(1973.4.22)、女性セブン(1988.1.1)の各誌を参考にしました。 高橋ユキ(たかはし・ゆき) ノンフィクションライター。福岡県出身。2006年『霞っ子クラブ 娘たちの裁判傍聴記』でデビュー。裁判傍聴を中心に事件記事を執筆。著書に『木嶋佳苗劇場』(共著)、『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』、『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』など。 デイリー新潮編集部
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