【江戸の人気観光スポット案内】現在も江戸時代も大勢の観光客でにぎわった忠臣蔵ゆかりの地「泉岳寺」
歌舞伎や時代劇ではおなじみの赤穂(あこう)事件。主君浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする赤穂浪士たちが眠る泉岳寺(せんがくじ)は、江戸時代も江戸を代表する観光スポットだった。 東京に12月だけ観光バスの渋滞ができるところがあった。あったというのは、コロナ禍で観光バスの運行が減ってしまったからだ。その場所なのだが、江戸時代も同様に大勢の観光客でにぎわったというが、皆さんはどこかわかるだろうか? ご年配の方ならば、年末になる映画やドラマなどで必ずといってもよいほど取り上げられたあの事件の関係者が眠る場所だと思われるだろう。そう、浅野内匠頭こと浅野長矩(ながのり)と、浅野家の家臣だった大石内蔵助良雄(よしお)をはじめとする赤穂浪士たちが眠る泉岳寺だ。大石らが吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(よしひさ)の屋敷に討ち入りしたのが12月14日、その首を浅野長矩の墓前に供えたのが明けて15日だったため、現在ではこの前後に泉岳寺を詣でる人が多い。 そもそも事の起こりは、元禄14年(1701)、浅野長矩が江戸城内で吉良義央に斬りつけたことだ。その原因は今もって謎だ。当時は喧嘩両成敗で、喧嘩を売った方も売られた方も罰せられることになっていたのだが、浅野長矩は、一関藩主田村家の屋敷で切腹、その後赤穂浅野家は断絶。ところが吉良義央はお咎めなしどころか時の将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)から見舞いの言葉を貰っている。これに対して浅野家の元家臣たちが不満を募らせて、翌年の12月14日に吉良屋敷に押し入り、義央の首を取ったのだ。 討ち入りの後、赤穂浪士の面々は本所にあった吉良家屋敷から、浅野家の墓所があった泉岳寺まで徒歩で向かった。泉岳寺が赤穂浅野家の墓所となったのは、三代将軍徳川家光(いえみつ)の命によるという。泉岳寺は徳川家康の命によって創建されたので、寺の経営を安定させるために、大名家を檀家にしようとしたのだろうか。 本懐を遂げた浪士たちは、その後、熊本藩主の細川家、伊予松山藩主の松平家、長府藩主の毛利家、岡崎藩主の水野家という4つの大名家にお預けととなり、翌年2月4日にお預け先で切腹、主君浅野家の墓所に葬られた。討ち入りの前から人々の関心を買っていたが、人気が爆発したのは寛延元年(1748)8月、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演されてから。 さて、江戸を訪れる旅人の多くにとって、江戸は通過地点に過ぎない。最終目的がお伊勢さんこと伊勢神宮だという人が大半だ。江戸から伊勢神宮のある西へ向かうには東海道を通ることが多かった。泉岳寺は東海道第一の宿場町品川の少し手前、東海道に近いところにある。それほど急がない旅であれば、ちょっと足を延ばしてみようかと思わせる場所だ。これも泉岳寺が人気の観光スポットになる要因のひとつだった。 ただし、享保17年(1732)に刊行された『江戸砂子』によれば。2月4日、3月4日、正月、7月16日など決められた日以外は参拝できなかったとある。特に赤穂浪士たちの命日にあたる2月4日には大勢の人々が訪れたという。また開帳と称して寺の秘仏だけでなく、寺に納められた赤穂浪士たちの遺品も公開した。 しかし、これでは参拝を希望する人たちを捌き切れなくなったのだろうか、文化文政時代には墓所の入り口に門を設けて、その脇にいる墓守に1人6文を払って参拝を許し、墓所を描いた絵図を売るようになった。この絵図はよく売れただろう。それらしいものが現在にも数多く伝わっている。 現在は、討ち入りの日だけにスポットがあたり、赤穂浪士たちの命日にはあまり関心が向かないようだ。しかし、墓参ということであれば、命日に詣でるのが正しいのかもしれない。
加唐 亜紀