島原城築いた藩主・松倉重政の実像に迫る 長崎・島原市で展覧会
島原城を築き「島原の乱」(1637~38年)の一因をつくった島原藩主、松倉重政(生年不明~1630)に光を当てた展覧会「松倉重政と島原城」が、長崎県島原市城内1丁目の観光復興記念館で開かれている。11月4日まで。入場無料。 【画像】「関ケ原合戦図屏風」に描かれた松倉重政 島原城築城400年記念事業実行委員会主催。市教育委員会の吉岡慈文学芸員によると、松倉重政に関する確実な1次史料は少なく、今展覧会の史料約10点の大半が、ゆかりの地の資料館などに残るびょうぶ、絵図などの複製という。 重政は1600年の関ケ原の戦いで単身、東軍に加わった。「関ケ原合戦図屏風(びょうぶ)」(岐阜・関ケ原町歴史民俗学習館)には馬上の重政が認められる。重政はその時の戦功で大和国二見(奈良県五條市)に1万石を与えられ、二見城を築いた。「段丘上に立地し、水利に乏しい二見の地にあって領国経営に頭を悩ませた経験が、水に恵まれた島原での統治にも生かされた」と吉岡さんはみる。 重政は、豊臣氏が滅んだ大坂の役(1614~15年)の戦列にも参加した。 「大坂御陣」(肥前島原松平文庫)には、大坂城の出城、真田丸を挟んで「松倉豊後守」と名が記されている。 道明寺方面で豊臣方「五人衆」の一人、後藤又兵衛の隊との戦いなどにおける働きが評価され、1616年に肥前国の島原半島へ4万石で国替えに。18年から約7年間かけて島原城を造り、城下も整備した。この間、子の勝家と2代にわたり領民の限界を超える税を取り立て、キリシタンを弾圧。江戸時代最大のキリシタン農民一揆、島原の乱を引き起こした。 (本山友彦)