映画『ナミビアの砂漠』を徹底レビュー!「悔しみノート」の梨うまいが“自分を語らない主人公”が抱える果てなき孤独という名の砂漠に迫る
19歳の時に発表した映画『あみこ』(18)が史上最年少でベルリン国際映画祭出品された山中瑶子監督が、主演に河合優実を迎え作り上げた最新作『ナミビアの砂漠』がついに公開となった。本作で河合が演じたのは、世の中も、人生もすべてつまらないと感じている21歳の女性、カナ。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きているカナは、優しいが退屈な恋人、ホンダ(寛一郎)から、自信家で刺激的な映像クリエイターのハヤシ(金子大地)に乗り換え新しい生活を始めるが、しだいに退屈な世の中と自分自身に追い詰められていく…。 【写真を見る】ネタバレありで人気エッセイの著者、梨うまいが映画『ナミビアの砂漠』をレビュー! 劇中でカナは自分のことを語ろうとしない。そもそも彼女自身、モヤモヤとした気持ちの理由がわからないのかもしれない。日々のほんの些細なことの積み重ねのなかで生まれた、“少しずつ自分が削られていくような感覚”によって不安定にさせられているのではないか…。そんな脆さを抱えた彼女の姿は、スクリーンを越えて観る者の心に迫り、彼女について考えを巡らさずにはいられなくするはずだ。今回、自身も「私は何をどうしたらいいか分からず悩んでいます」と、誰にも言えない、抱えきれない思いを、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のお悩み相談コーナーに投稿し話題となった経験を持つ、エッセイ本「悔しみノート」の著者、梨うまいが『ナミビアの砂漠』について、作品を鑑賞しながら巡らせた思いを綴ってくれた。 ※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。 アフリカ南西部に位置するナミビア共和国、通称ナミビア。国名はその地が擁する“世界最古の砂漠”と言われるナミブ砂漠に由来する。ナミブ、という言葉には、諸説あるが“なにもない”という意味もあるらしい。ナミビア共和国のナミブ砂漠。なんもない共和国のなんもない砂漠。身も蓋もないネーミングで笑えるので、諸説ありといえども「ナミブ=なにもない」説を推したい。本作の主人公、カナが度々観ているのが、このナミブ砂漠からのライブ中継映像だ。実際に配信されていて、YouTubeで観ることができる。今、配信を流し見しながら書いていますがね、なんかよくわかんない、鳩?みたいな鳥がすごい集まってきました。画面の端のチャットルームでは、どっかの誰かが「すげー、なんか『DUNE/デューン 砂の惑星』みたい」的なことを英語で言っています。なんにもない広大な砂漠で、画面中央のオアシスに様々な動物が集まって、水を飲んでは去っていく。なんだかずっと見ていられる光景。カナに、どうしてこの映像を観ているの?と聞いたら、「え?しらない。なんとなく。あ、鳥ー」とか言ってはぐらかされそうだ。 ■激昂と虚脱を繰り返す姿にすら目を奪われる…異様な魅力を放つ主人公、カナ 彼女は自分を語らない。君が主人公の映画なのだから、もっと君のバックボーンやら内心やらを詳細に語ってくれたっていいんだぜと思うが、目を凝らしてもぼんやりとしか見えない。そしておそらく彼女も、自身の苦悩の根源や傷の形が見えていない。 表面的に見える彼女という存在は、21歳、ウソつきで薄情。脱毛サロンで働いていて、浮気もするし暴力も振るう。相手をわざと苛立たせて喧嘩をけしかけるクセに、ちょっと反撃されると「大きな声出さないで!」とか「なに?こわい」って被害者面をするところが結構クソ。急にブチギレて、急に落ちる。全部が全部、それがなぜそうなのか、こちらの同情を集めるような説明はしてくれない。彼女にだって分からないのだから。 だけどカナは異様に魅力的だ。スクリーンに映し出された瞬間から彼女に釘付けになったのは、たぶん私だけじゃないはず。恋でもしたように自然と目で追いかけて、ぽかんと口を開けたまま彼女の柔らかな肌を、しなやかな筋肉をつぶさに見つめてしまう。物語が進むにつれて、どんどん不安定になっていく彼女を見ていても不思議と苦にならない。それどころか、暴れもがく彼女の身体はますます煌めいて見えて、激昂と虚脱を繰り返す様子はキュートでチャーミングにさえ思えてしまった。そこに擁護も肯定も共感も無い。私と彼女の間には常に一定の距離があり、この関係は砂漠の映像を観ている私と、観られている動物達の間のそれと近いものを感じる。 今、砂漠の映像には角の長い謎の動物が数匹現れました。調べてみると、こいつはオリックスというらしい。へぇー。 ■『恋する惑星』の主人公、フェイとの共通点と圧倒的な違い 奇妙な魅力を放つ彼女から、私はウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』(94)の物語後半の主人公、フェイ(フェイ・ウォン)を連想した。舞台は香港の重慶マンション。その一角の軽食屋でバイトをするフェイは、ママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミン(夢のカリフォルニア)」をいつも爆音で聴いていて、心ここにあらずといった感じで働いている。そして店の常連である警察官に恋をした彼女は、彼の部屋へ密かに侵入し、元カノの色が濃く残る住まいを勝手に模様替えして大胆に自分の世界へと塗り替えていくのだが、この行動はあまりにもぶっ飛んでいる。だけど、「だってこうしたかったんだもん」と言わんばかりの彼女のピュアな表情に、腹が立つどころかキュンとしてしまう。 カナとフェイ、この二人に共通するのが、その身体から匂い立つ“自由”と“奔放さ”だ。捉えどころがないからこそ、追いかけたくなってしまう。人の話を聞いていないところも、自分の欲求に素直なところも、長い手足をぷらぷらさせる歩き方まで似通っている。ただ、彼女たちの“自由”は、似ているようでちょっと違う。フェイは、どこへでも行けるし、どこでも彼女の世界を作って暮らせる。一方カナは、どこへでも行けるけど、どこへ行っても何もない。 カナの自由は孤独と一体で、砂漠のかたちをしている。これまでの青春映画で描かれてきた息の詰まる閉塞感とは真逆の、どこまでもだだっ広く続く果てしなき孤独。湿った自意識に足をとられるようなものではなくて、自分の心すらカラカラに乾いて、なにも感じない。感じないように蓋をしてきて、開け方が分からなくなっているのか。そして焦燥感に駆られて、無意識のうちにオアシスを求めて彷徨うのだ。偶然にも、『恋する惑星』の原題は『重慶森林』であり、『ナミビアの砂漠』と対を成しているように見える。 ■無味乾燥なやり取りが心をカラカラにする 心をカラカラにして喋らないといけない場面があるのは非常によく分かる。彼女が働く脱毛サロンなんかは、その最たる例だ。 劇中でカナが言っていた通り、エステ脱毛では永久脱毛はできないことぐらい、ちょっと調べれば誰にでも分かる。でも、脱毛サロンのお姉さんたちは決してその事実を口にしない。その代わり永久脱毛できるとも言わない。嘘にならない範囲で、通い続ける羽目になるエステ脱毛のコースへと誘導してくるのだ、カラッカラの瞳で。 不毛なやり取りであることは誰よりもお姉さんがご存じなのである。相手がなんにも知らない情弱かそうでないかはすぐ分かるだろう。それでも仕事だから決められた台詞を吐くのだ。そしてもし相手が狙い通りの情弱で、「じゃあエステ脱毛コースにしようかしら」と言ったところで「あーあ、馬鹿だなあ」と思うだけなんだろう。ご苦労な仕事であることよ…。 私には絶対無理だな、とバービー人形みたいにつるつるなお姉さんのうなじを見ながら思った。脱毛と縁がない皆様にはいまひとつピンとこないだろうか。言うなれば、たまにしか行かないショッピングモールで、会計の際に店員さんから「今ならクレジットカードを作るとすぐに使える500円分のポイントが貰えますがいかがですか?」とゼロハート早口で説明されるあの時間と同じです。 無味乾燥なやり取り。スーパー砂漠タイム。端から聞いてりゃ可笑しいが、砂漠タイムを繰り返す当事者はたまったもんじゃない。自分の考えも、アイデンティティもはじめから無かったみたいに振る舞って。砂で出来た自分の輪郭がサラサラと流れ消えていく感覚。 気が付いたらオリックスの群れはいなくなってしまいました。風に水面が揺れています。 ■乾いたやりとりに溢れた生活の中で渇望していた血の通ったコミュニケーション 多様性の時代である。国籍がどこであろうと、性自認がなんであろうと、恋をしようがしまいが、エステ脱毛でも医療脱毛でも、どうぞご自由に。互いを尊重し合いましょう。待ちに待ったそんな理想社会のはずだが、急ごしらえの“多様性の尊重”は、“無視”とほとんど変わらない。 面白くない映画を観て、こんなところが面白くなかった、ここがこうだったらまだマシだった、あのシーンだけはマジで許せねぇ、なんて話をするのも聞くのも私は大好きだけど、「まぁ、その作品が好きな人もいるから……」って苦笑いをされることがある。がぁぁ~ん。大ショック。これってコミュニケーションの拒絶ですよね?その誰かの好きと、私の嫌いは、同じだけの価値があるものでしょう?あなた、どちらの意見も尊重しましょう、というフリをして、私を無視しています。言外に、「よりよい社会のためにお黙りください」という懇切丁寧な圧を感じる。 仮にあなたが“好き”側の意見なんだったら、「笑止!貴様この作品を感ずるだけの教養に欠けておる」って喧嘩を仕掛けてほしかった。別にこんな豪傑みたいな口調でなくても構いませんが。言葉を、意見を受け取らずに、ただそこにいることの否定もしないのであれば、無視と何が違うんでしょうか。 思うに、カナは乾いたやりとりに溢れた生活の中で、確かなコミュニケーションを求めてもがいているのだと思う。そんな切実でピュアな欲求の表れだからか、浮気相手から正式な彼氏に昇格した同棲中のハヤシに対し、カナが執拗に絡んで取っ組み合いの喧嘩に至る暴力的なシーンは、普通だったら不快に映るはずなのにどこか滑稽でかわいらしい。言葉で煽るときに、自称クリエイターのハヤシにとって絶妙にイヤなところをついてくるカナのセンスも笑える。何も考えていない風に見えて、カナは人の心の機微をつぶさに見て、感じているのだ。 分かる、分かるよカナ。こちらが目一杯心を無にしてようやくこなしていることを、何でもないみたいにやれてしまう彼は、見ていてムカつく。それがさも“大人だから”みたいにしてるのもムカつく。恵まれた環境でぱやぱや育ってきただけのクセに。“クリエイター”?実家が太いだけのフリーターだろうが。私怨が出てしまいました、失礼しました。 加えて技術的な面でいうと、危なっかしくないから見ていられるというのもある。無茶苦茶な喧嘩に見えて、怪我をしそうなコントロール外の動きは無いからヒヤヒヤせずに傍観していられる。あの取っ組み合いの動きはコレオグラファー(振付師)がつけたのだろうか?いずれにせよ、こなせてしまう俳優陣も見事だ。カナを演じた河合優実に、ダンスの心得があると聞いて腑に落ちた。彼女の身体的アプローチのある芝居、もっともっと観てみたい。 もしこのシーンが痛々しく、ひたすらに苦しく描かれていたら、私はカナのことも、この作品もまるごと嫌いになっていたと思う。しかしこの客観的な映し方はほどよくドライで居心地がいい。いくら泣いても喚いても、ド派手にすっ転んで大怪我しても、地球はこれまたドライに自転と公転を続け、知らん顔して明日が来る。このカラカラ具合に救われちゃうこともあるのだ。世界がそんな調子だから、世紀末級の喧嘩をした相手とも、ケロっとしてご飯を一緒に食べられる。 しばらく小さな鳥以外来訪者の無かったナミブの砂漠のライブ映像に、画面左下から影が映り込んだ。なんだこの影、細長いぞ、ダチョウか何かか?ぐっと注目していたら、目が覚めるような鮮やかな青いシャツを着たおじさんが出てきた。彼は何をするでもなく、ゆっくりと画面奥に向かって歩き、立ち止まり、しばらく空を見上げて、そして去った。なんかめちゃめちゃ笑ってしまった。人、いるじゃん。いや、そりゃそうだ。人がいなけりゃライブ配信もできんだろうが。チャットルームも「誰⁉」「観光客かと思ったけど違うかな、あまりにも手ぶらだ。スタッフの人?」「彼は何しに来たの」と騒然としている。英語だからよくわかんないけど、たぶんそんな感じ。 なんもない共和国のなんもない砂漠にも、人はいる。乾ききって心にヒビが入りそうになるからオアシスで水を飲む。そんな暮らしの中で、偶然カナと顔を合わせることもあるだろう。そのときには、あのいかにも訳アリな隣人よろしく、しっとりと湿度高めな会釈をしたい。お互い色々、大変ですね。それじゃあ、また。そこに言葉はなくとも、私たちなりのリスペクトを送り合える気がする。 文/梨うまい