Bye-Bye-Handの方程式 フルアルバム『ソフビ』でメジャーデビュー 楽曲制作、キャリア最長の全国ツアーへの思いを語ったロングインタビュー
──高校生の頃から精力的に活動をしていたんですか。 汐田 今思えば、無茶な高校生活をしてましたね。 岩橋 軽音部としての部活動もあったしね。 汐田 記憶に残ってるのは……京都、京都、神戸って3連チャンでライブが続いたことがあって。みんな高校は別々で大阪の学校やったり、僕は兵庫の学校に行っていたんですけど、ライブが終わって終電で帰って翌朝学校に行くとか。で、また次の日は学校のトイレで私服に着替えて、ちょっと先生に怒られながらライブに行くみたいな(笑)。高校生だから遊びでという感覚は一切なく、その延長で今もきていますね。 ──バンド結成当初からの曲も1stアルバムに入っていたりするんですか。 汐田 まったく入ってないです(笑)。一昨日、初めてライブをした京都のライブハウスに7年ぶりくらいに行ったんですけど。当時から知っている店長が今の僕らを見て、「面影もない」みたいに言われたので(笑)。僕らとしてはグラデーションで変わっていっているんですけど、当時と今を比べたら別人みたいな。 ──振り返ってみて、いちばん変わったなと思うのはどんなところですか。 清弘 暗かったね。 汐田 あの頃は暗かった。あと大きくちがうのが僕の声にボーカルエフェクトがかかってて、ケロケロしてたんです。そのときは発明やと思ったんですけどね。普通のギターロックにケロケロが付け足されて、それが相乗効果にならない状態で。自分はあくまで曲を作りたいだけで、ボーカルをやりたくてはじめたバンドじゃなかったので、3年間くらい抵抗してました。でもオートチューンをかけると「めっちゃいい感じの歌詞を書いてんのに、聴き取られへんで」とか散々言われて。それを言われるのが面倒臭くなっちゃって、半ばやけくそで外して。そしたらすげえ褒めてくれるみたいな。 ──正攻法がよかったんですね(笑)。そのボーカルエフェクトを外していったことで、サウンド面の変化もあったんですか。 清弘 楽曲も徐々に変わりましたね。元々僕ら自体は明るいんですけどクールぶってたよな、あの頃は。それでダークな感じでやっていたのが、どんどん素が出てきて、曲もハッピーな感じになってきて。それに伴ってサウンドもどんどん明るく変わっていきました。 汐田 ハッピーにやってても結局、根っこの暗さは消えへんねんなっていうのを確認したというか。どうやら、人よりも明るくなってないぞみたいな。それが逆によかったんです。根っから明るい曲を書いたつもりでも、やっぱり蓋を開けてみたら俺のややこしい部分は残ってるし、というのはありましたね。 ──その元の部分もちゃんと伝わるようになってきた感じですね。音楽的な好みやルーツは4人とも近いんですか。 岩橋 バラバラですね。僕は音楽を好きになったのが父親の影響やったんで、80年代とか90年代のハードロック、日本のバンドではサザンオールスターズとかをずっと聴いていて。ただ、僕たちが小中学生のときにRADWIMPSが流行り出した頃は、みんな聴いてはいましたね。ONE OK ROCKも一度は全員通っているんじゃないかなと思う。 中村 僕はRADWIMPSは通ってないんです。いちばん好きなのがUVERworldで。きっかけはおかんに連れて行かれた京セラドームでのライブだったんですけど、最初は全然行きたくなかったんです。でも帰り道には、かっこええ!っていう感じで。その京セラドームでライブを観たときに、この景色をあっち側、ステージ側から見たいなって思ったし、これだけの人を僕みたいな気持ちにさせたいなっていうのがあってバンドをはじめたいとなりました。 清弘 僕も根本にはRADWIMPSがあって、結構いろんなジャンルを聴いてましたね。高校でコピーバンドをやっていた時期にはラウドな曲ばかり聴いていたり、いろんなものをフラフラとしていますね。 ──汐田さんは曲作りのきっかけとなったバンド、アーティストはいましたか。 汐田 最初に“バンド”というのを認識をしたのがRADWIMPSとBUMP OF CHICKENやって。今も、曲を作る上でお守り的に大事にしている中心には、バンプがいる気がします。